―135―「兼房夢感の人麿像」についての識語―を北村季文が記したことがわかる。また、静山と黒羽藩主大関増業、松代藩主真田幸貫が描かれた「三勇像」(内藤業昌筆 同蔵)は佐藤一齊が着賛している。特に一齊は静山との交友が深く、寛政2年(1790)には静山によって藩校維新館へ招聘され、また、『甲子夜話』を記すきっかけも、一齊のアドバイスによるものという(『甲子夜話』正編巻首)。この松平定信を中心とする文人サロンは、単なる情報収集の場ではなく、かれらの中からは『集古十種』等の文献も生み出されている。この中で注目したいのが松平定信の命によって、柴野栗山と住吉廣行が編纂した『寺社寶物展閲目録』である。本目録は近畿地方の社寺の宝物をリストアップしたものである。この時の調査については廣行の「上京日記」(注11)に詳しい。これによると、調査は寛政4年(1792)9月から12月にかけての短期間に行われ、柴野栗山、住吉廣行の他に板谷慶意廣長も同行している。また、屋代弘賢もこれに従ったとある。彼らは寺社の宝物を点検し、優れた古画があれば模写を行っていた。このような経験が住吉、板谷派の絵画情報をさらに豊かなものにしたと考えられる。静山もこのサロンに出入りする中で、両派と知遇を得ることができたのではないだろうか。さらに注目したいのは、静山自身が住吉派の研究姿勢を高く評価している点である。『新増書目』「兆殿主肖像」の記事を例に挙げたい。その内容は以下の通りである。この像はもともと東福寺が所蔵していたが、淺草某のもとへもたらされた際、廣行が模写を申し込んだという。しかし、応対した僧侶は再三にわたる廣行の願い出を断り、それでも強く懇願した廣行はようやく模写を許される。その後、東福寺は火災に遭い、原本は失われることになるが、このエピソードについて静山は「廣行ノ畫道ニ忠孝ア也」と述べ、廣行における古画修学の熱心さを賞賛している。結語以上、住吉、板谷派における絵画鑑定について松浦静山の記した『新増書目』を中心に概観してきた。ここでは『新増書目』が考証的手法で編まれた目録であるため、真贋による価値判断より、両派のもつ絵画情報そのものが求められてきたことを確認した。江戸時代後期の両派の研究は未だその緒に就いたばかりであり、特に鑑定者として、同派に何が求められてきたのかについては、ほとんど注目されることがなかった。しかし、住吉廣行が編纂したとされる『倭錦』(やまと絵師や代表的作品を所収)は、ヨシル善ナカリスベクメ.彼ノ僧愚ニメ不慈ナル(中略)廣行微セバ.今其豈此像ヲ視ル者有ン
元のページ ../index.html#144