鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―141―ェやベルグソンの哲学が芸術家たちに重要な示唆を与えた(注2)。さらに、19世紀末・20世紀初頭のドイツで新しく刊行された芸術雑誌『パン』、『ユーゲント』、『インゼル』、『ドイツの芸術と装飾』、『ジンプリツィシムス』、『芸術と芸術家』で展開されるユーゲントシュティールの線描画は、流れるような筆跡や、それによって単純化され平面的な形式を特徴としており、そこで舞踊は最も適した主題の一つであった。その際、単に人物の姿勢が「踊り」として再現されるのではなく、人間の有機的な運動が、ひるがえる衣服の襞やヴェールを示す装飾的な線の遊技のうちに反映されたのである(注3)。そのような人物線描画のモデルとなった舞踊家として、ロイ・フラーが代表的である。フラーは、モダンダンスの先駆者と言われるイサドラ・ダンカン以前にアメリカからヨーロッパに渡った舞踊の開拓者であり、長い布を身体の周りで打ち振り舞うその踊りは、従来のバレエとは一線を画するものであった。クレーはミュンヘンの美術学校を中退し、1901年10月から翌年の5月までイタリア旅行に出かけた。美術学校でフランツ・フォン・シュトゥックの下で絵画を学びつつも、色彩を自分のものに出来ないことに悩んだクレーは、シュトゥックの紹介で雑誌『ユーゲント』に線描画を投稿したり、彫刻を学ぼうかと奔走し、いずれも失敗に終わる(注4)。このような経過を経てイタリアに赴いたクレーは、古典に対峙することによって、むしろ同時代のアカデミックな芸術表現の限界を悟ることになる。そして、この旅行においてクレーはロダンの線描画に遭遇し、また積極的に新しい舞台芸術を見るのである。その背景には、クレーが読んでいた新興の芸術雑誌の影響があると考えられる。ロダンは、1880年代から芸術の主題として「舞踊」と「オリエント」を中心に据えていた(注5)。例に取ると、フラーやダンカン、ニジンスキーのような新しい舞踊家、ジャワやカンボジアの舞踊家、花子の踊る像を描いている。クレーは1902年4月、ローマ国立近代美術館の定期展覧会でロダンの単純化された人物線描画を見、そこに「風刺画」の要素を見出す(注6)。この「風刺画」とは、「私が美の敵の線描画によって美につかえると言った時には、しばしば〈Karikatur, Satire〉のことを指して言ったのだ」という日記の記述からも推測されるように、従来の芸術とは違う新しい芸術の樹立を目指すという意味で用いられている(注7)。1890年代以後、ドイツでロダンが展覧会や芸術雑誌、モノグラフにて広く紹介されたこともあり、クレーはロダンの線描画を折に触れて参照することになる(注8)。1907年にクレーは線描画《裸婦、踊るヴィーナス》〔図1〕を制作した。この線描画は、人物の周りを壁龕状に切り取られ、他の人物線描画と共に台紙に貼り付けられている〔図2〕。その3年前に、イタリアから帰国後初めての完成作であるエッチン

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