―142―グ「インヴェンツィオーネン」の連作の一つとして、クレーは《女と獣》〔図3〕を作った。それは、クレーがナポリ考古学博物館で見たシヌエッサのアフロディテ像と比較され得る(注9)。だがクレーはここで、美の女神を醜悪な人間の女に置き換えることにより、美の女神、すなわち古来からの芸術の象徴を風刺し、攻撃の対象にしているのである。《裸婦、踊るヴィーナス》は、こうした風刺の要素を受け継いでいると考えられる。この地上のヴィーナスは、恍惚状態のうちに踊り狂うバッコスの信女や、サロメをも連想させる。コルトはこの作品と、ロダンの線描画《足下に貝殻のある、長いヴェールの裸婦》(1890年頃)、ブロンズ《イリス、神々の使者》(1890−1891年)の間に、形式的な類似性と官能的な主題の共通性を見出した(注10)。1904-1907年のクレーの人物線描画は、《女と獣》など「インヴェンツィオーネン」の作品に比べ、輪郭線の強調されたより平面的な形態や、人物の周りを切り取られ、再構成されるといった特徴を持っていることから、このようにロダンの線描画との比較が試みられてきたが(注11)、クレーが実際にそれら特定の作品を知ることが出来たのかについては判然としない。しかしながら、雑誌『芸術と芸術家』1904年2巻4号のエミール・ハイルブートの展覧会評「ベルリン分離派第八回展から」に掲載されたロダンの水彩画〔図4〕が、身体の動きを連想させる裸婦の左脚のペンティメントや右脚を上げた不安定な姿勢といった特徴において、《裸婦、踊るヴィーナス》にある程度の示唆を与えたと言えるかもしれない(注12)。ハイルブートは『芸術と芸術家』の編集をしており、1905−1906年にクレーが「インヴェンツィオーネン」をその雑誌に載せてもらおうと交渉した相手である(注13)。このロダンの作品は、ベルリン分離派第八回展で展示された水彩画・線描画の一つであり、ハイルブートは、このような単純化された人物像の中でアジアとヨーロッパの芸術が一体となっている点を指摘している(注14)。《裸婦、踊るヴィーナス》のもう一つの源泉として、クレーが作品掲載の機会をねらっていた雑誌『ジンプリツィシムス』の1904年8巻47号に掲載された、オラーフ・グルブランソンによる、踊るイサドラ・ダンカンの四つの風刺画〔図5〕を考慮の対象としたい(注15)。この作品は、婚約者リリー・シュトゥンプフに宛てたクレーの書簡において「非常に重要である」と言及されており(注16)、また1905年にクレーが購入を考えたエドアルト・フックスの本『風刺画における女性』にも図版として掲載されている(注17)。ダンカンは新しい舞踊の開拓者として、1902年のミュンヘンとベルリンで大反響を呼んだ公演以来、ドイツでも有名であった。彼女はギリシアの彫刻や浮彫、壷絵における人体の運動表現から示唆を得てその踊りを開発し、裸足に
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