―143―チュニックのみを纏って、女性の自然な肉体性を表現することを踊りの原動力とした(注18)。この作品中、特に左上の「オルフェウスとエウリディケ」と題された踊るダンカンの像は、右脚を高く上げ、大きく股を開いた姿勢や、腹部の皺などの細部、また陰影のない単純な曲線による形態の特徴まで、クレーの作品と類似している。ただし、グルブランソンの作品では、クレーの作品に比べより装飾的な効果が目的とされていると言える。グルブランソンによる右上のダンカンの踊る姿がエウリピデスの『バッコスの信女』に、また左下の踊る姿がティツィアーノの《バッコスとアリアドネ》に依ると称されていることから、たとえこのダンカンの踊りが、夫妻の幸福な結末に変更されているグルックのオペラ『オルフェウスとエウリュディケ』に依るとしても、この左上の作品からはバッコスの信女に惨殺されるオルフェウスの神話の悲劇的結末が連想される(注19)。ダンカンのディオニュソス的なるものへの傾倒にある程度の共感を示し、クレーがこの作品を自らの作品の源泉としたとしても不思議はない。クレーのニーチェに関する言及は1898年の日記に始まり、1904−1905年にその著作への関心を述べている(注20)。また、1906年に故郷のベルンを出てミュンヘンに再居住したことから、クレーは、画家においてはシュトゥックを筆頭に、「宇宙論グループ」のアルフレート・シューラーなどミュンヘンの知識人たちにおけるこうしたニーチェ礼賛の空気を意識していたと考えられる(注21)。2年後の1909年に、クレーは《女性舞踊家たち》〔図6〕と題する線描画を描いた。この作品の構成は、クレーが絵画の独創性を評価し、美術学校で師事したシュトゥックが1896年に作った同じ題名の油彩画のそれによく似ている〔図7〕。クレーは学生時代に作品を評価してもらうためシュトゥック邸を訪れることを許され(注22)、その際に音楽室の壁にかかっていた油彩画と同じ構図による浮彫を見ていたか、雑誌『全ての人のための芸術』1903年19巻1号の32頁に掲載された油彩画を見た可能性がある(注23)。この号と次の号では、1863年生まれのシュトゥックの40歳記念特集が組まれた。両者の作品では共に、透き通った衣を打ち振り舞う二人の女性の姿が描かれている。シュトゥックはヴァリエテの舞踊家サアレの肖像を数多く残し、サロメの踊る姿を描いたりと、舞踊への強い関心を持っており、また若い頃、雑誌『フリーゲンデ・ブレッター』等に載せる線描画で生活費を稼いでいたことから、元々線描画、風刺画を得意とする一面を持っていた(注24)。彼はこの作品を作るにあたって、先に挙げたロイ・フラーの舞踊を念頭に置いていたと考えられる〔図8〕。クレーもまた、イタリア旅行でフラーの踊りを見、さらにシュトゥックの作品を意識したのか1904年にサアレの舞踊を見ている(注25)。シュトゥックの作品では、暗闇に浮かび
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