―145―2.アジア・オリエントと舞踊イタリア旅行でクレーは、オテロ、ゲレロ、フラー、クレオ・ド・メロードの踊り、またマスカーニのオペラ『イリス』と川上一座の舞台を見る。1902年3月19日ローマからリリー宛の書簡で、クレーは『イリス』をワーグナー以来の最も優れたオペラと記し、二回も劇場を訪れている(注30)。1898年ローマで初演されたそのオペラは日本を舞台にした悲劇であり、台本をプッチーニの『蝶々夫人』と同じルイージ・イッリカが担当した。マスカーニは『イリス』において、オーケストラの音質を日本の楽器の音質に近づけようと試みたことからも、クレーにとってそのオペラは斬新で強烈な印象を残すものとなったと考えられる(注31)。そのような体験を得て、クレーはプッチーニやロダン等も夢中になった川上一座の舞台をフィレンツェのペルゴーラ劇場で見ることになる。川上一座は、ヨーロッパでは1900年のパリ万博で有名になり、一度帰国して後再び日本を発ち、ドイツ語圏、東欧、ロシアの各地を巡回してイタリアに入った(注32)。その舞台を見たことに関する最初の記述が1902年4月18日の日記にあり、その際「もっぱら踊りと修羅場が中心」と記していることから(注33)、クレーは4月17日の演目『芸者と武士』と『袈裟』を見たことになる(注34)。『芸者と武士』は『鞘当』と『道成寺』を一つにして二幕ものの芝居にしたもので、そこでは遊女葛城と、『袈裟』では遠藤盛遠が本来の物語に反して凄惨な最期を遂げる(注35)。クレーが貞奴の舞いの伴奏を「野蛮な」と評し、また彼女を生きた人間というより人形、「タナグラ」に喩えたことは、非西洋の音楽に耳慣れない、また浮世絵や工芸品から日本人女性の姿を想起していた当時の西洋人に典型的な反応であった(注36)。クレーはこれらの演目を「グロテスクなユーモア」と評価し、また貞奴の立ち振る舞いに興味を持ちモデルとしたい旨を伝えている(注37)。ここでもまた、クレーの風刺画への関心や運動する身体を線描画に捉える欲求が注目される。さらに、「識者だけに本当の楽しみを表している間は、日本のその他のものと同様、演劇もまた将来性がある」と述べていることから(注38)、クレーは前述の芸術雑誌がその普及に一役買っていたジャポニスムの重要性をすでにミュンヘンで理解していたと考えられる。当時の西洋人たちが貞奴に夢中になったことからも分かるように、アジア・オリエントは新奇な世界として人々の好奇心をかき立てた。そして、そのような未知の世界への好奇心は、19世紀西洋社会においてタブーとされ隠蔽されてきた肉体の官能性とも結び付けられていく。そうした人々の好奇心を満足させた主題の一つとして「サロメ」が挙げられる。「サロメ」は、新約聖書のマルコ伝に起源を発する物語であるが、
元のページ ../index.html#154