―146―「七枚のヴェールの踊り」―サロメがヘロデ王の求めに従って踊り、その報酬としそれは19世紀末から20世紀初頭にかけて、モローの絵画やワイルドの戯曲、ビアズリーによる挿絵、その戯曲に基づいたリヒャルト・シュトラウスのオペラなど、実に様々な芸術において取り上げられた。そしてワイルドの戯曲に代表されるサロメのて自らの愛に応えないヨハネの首を望むことになる―は、サアレやマタ・ハリ等新興の舞踊家たちによって、またシュトラウスのオペラにおいて再現されたのである(注39)。例えばマタ・ハリの踊りは、「身に纏った七枚の薄物のヴェールを、一枚一枚剥ぎ落とすようにして踊るもので、最後はほとんどヌードに近い状態になって舞いおさめる」ものであったという(注40)。このストリップ的で、かつ神秘的な踊りは、宗教的な神秘性とアクロバットや裸体による見せ物性が入り交じったオリエントの舞踊、特にベリー・ダンスに通じている(注41)。そうした踊りは万国博覧会などを通じてヨーロッパに入り、人々の話題となったのである(注42)。さらに西洋人の空想するオリエントに具体的な表象を与えたのが、上述の舞踊家たちや、ルス・セント・デニス、バレエ・リュスであった。こうした状況をイタリア旅行以来目の当たりにしていたクレーは、アジア・オリエント的要素と舞踊の結びつきに注意を払っていたと推測される。1904年の日記では、クレー自ら「日本風の様式」と見なしたビアズリーの線描画を、中国人のアクロバットの興行を見た時の印象と重ね合わせて批判し、むしろその興行のすばらしさを讃えている(注43)。またこの時、サアレの踊りを見たこととワイルドの戯曲『サロメ』をベルンとミュンヘンで二度鑑賞したこと、さらに1906年にシュトラウスのオペラをミュンヘンで見たことについて言及し、その翌年に『サロメ』のビアズリーの挿絵に関して日記に記している(注44)。こうした経験を経てクレーの「サロメ」との取り組みは、1912年の線描画《女性舞踊家》〔図9〕に表されていると言えるかもしれない。この女性の衣装はモード・アランやマタ・ハリが「サロメ」を踊ったときの衣装によく似ている〔図10〕。この作品では、重量感のない透き通った裸体に、やはり透き通ったヴェールのみを纏って踊る女性舞踊家が、1911年から翌年にかけて描かれたヴォルテールの『カンディード』の挿絵と同傾向の素早い筆致で捉えられている。そこでは地平線が描かれず、舞踊家−サロメの恍惚状態が、まるで宙に舞うかのように両腕を掲げて踊る姿に表されている。その身体は画面左から右上方へと展開する動きを見せており、その身体運動の経過が、揺れるヴェール、蹴り上げた両脚を形作る複数の線によって示されているのである。またここでは、1909年の《女性舞踊家たち》で追究された線描がさらに単純化されており、形式において一定の法則性が見られる。
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