―147―クレーはイタリア旅行中の1902年1月にローマでフラメンコを踊るオテロを見た際に、官能的なものを感じたのと同時に、その「運動の法則」と「静止した身体の線の複雑な関係」とを学ぶ必要性を認識していた(注45)。この1912年の線描画では、女性舞踊家の細長い身体や腰から流れるヴェールの直線と、身体各部の筋肉や胸、髪型、ヴェール飾り、ヴェールや脚の「振り」を示す曲線とが、有機的に関係付けられ統一を成している。1911年、クレーはクビーン、マッケ、カンディンスキーと知り合い、「青騎士」展の第一回展でドローネーの作品を見る。翌年には、2月にミュンヘンでピカソとブラックによるキュビスムの作品に接触し、4月のパリ旅行でもう一度彼らの作品やマティスの作品を見、ドローネーと出会い、さらにミュンヘンで10月に未来派の展覧会を訪れ、11月にバレエ・リュスの公演を見ている。同年のチューリヒで開催された「デア・モデルネ・ブント」展に関する雑誌『ディー・アルペン』の展覧会評や、翌年『デア・シュトゥルム』に掲載された、ドローネーの論文「光について」のクレーによるドイツ語訳において、クレーはこれらの芸術から共通の問題意識を見出している(注46)。つまり、個々の対象の同時的な対比作用と、リズムを刻む運動の過程とを新しい絵画秩序のうちに捉えるということである。キュビスムや未来派を参照した結果として、1912年にクレーは、《裸体のスケッチ》〔図11〕を描いた。その踊る人物の身体はやはり透き通るように描かれ、身体各部が楕円状の形態に還元され組み合わされている。これらの単純化された各形態は互いに関係付けられてそこからリズムを生み出し、全体として弾むように運動する身体を形成しているのである。この簡潔な線による身体の力強い動きは、クレーが見たバレエ・リュスの演目の一つ、オペラ『イーゴリ公』からの『ポロヴェツ人の踊り』〔図12〕における男性舞踊家たちの豪快で野性的な踊りから発想を得ていると言えるかもしれない(注47)。1913年の線描画《踊る男女》の後、第一次大戦が勃発するとクレーは舞踊を主題とした作品を描かなくなる。代わりに1914年の《軽業師たち》や1916年の《軽業師たちと曲芸師》のような、アクロバットに関する線描画が制作された。そのような主題は、危機的な時代における芸術家としてのクレーの不安定な状況を暗示しているようである(注48)。また踊る人物像の代わりに、この間、「文字絵」のような抽象的かつ時間の経過を問題とした作品が展開し、1920年になって再び「サロメ」が登場することになる(注49)。線描画《ヴェールの踊り》〔図13〕では、サロメの顔、腰、腿、足から横に広がるヴェールが多層の線から成り、それらの線は規則的に延びていきながら、時には交差したり、屈折したりと多様な運動の展開を示している。この作品は、クレ
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