―163―著者像と合わせるならば、合計3点に及ぶ著者像が挿入されているわけで、著者に対する意識、ひいては創作という概念が浮き彫りにされる結果となっている。ボードリアン図書館所蔵の『薔薇物語』Douce195〔図13〕の冒頭の挿絵も興味深い。典型的な著者像表現のひとつである記述する著者と並んで『薔薇物語』の冒頭挿絵としてお馴染みの「夢見る人」が並置されている。これまで記したことから察するならば、S・レヴィスも述べているように、三とおりの解釈が可能である。1)著者ギヨーム・ド・ロリスと「夢見る人」、2)古代の哲学者マクロビウスが語るスキピオ王とギヨーム・ド・ロリス、3)ジャン・ド・マンとギヨーム・ド・ロリスである(注23)。そのどれであるれかをここで判断することはできないが、いずれの場合であれ、「夢見る人」と著者は同一視されており、この扉絵の意図するところは、著者という概念を強調し、著作という行為を前面に押し出すことにあったことは間違いあるまい。このように著者および著作行為を強調する傾向は、以後、ギヨーム・マシューなどの挿絵で助長されていくことになる。『薔薇物語』に施された、「夢見る人」としてのギヨーム・ド・ロリスと彼を引き継いだジャン・ド・マンの二点の著者像は、著者の自意識が芽生えたことを雄弁に物語るものであり、続く時代に継承されていくことになる新機軸を打ち出すことになったのである。以上の考察を踏まえて、再度、『愛に囚われし心の書』に戻るならば、『薔薇物語』で打ち出された新機軸は確実に継承され、なおいっそう強化されている。パリ所蔵の『愛に囚われし心の書』(Ms. fr. 24399)の完結した写本では、最後の挿絵のテーマとして著者像が表現されている〔図3〕。2点の著者像を挿入することが『薔薇物語』で定式化していたことはみてきたとおりである。しかし、ここでは、冒頭の挿絵〔図2〕で見られた半ば開いたテントが背景に置かれており、両者が同一空間であることは明白である。また、記述している人物も冒頭でベットに横たわっていた人物と同一である。つまり、この記述する人物は、夢からめざめてベットを離れ、今しがたみた夢の中での体験を記している「夢見る人」にほかならない。『薔薇物語』の2点の著者肖像がギヨーム・ド・ロリスとジャン・ド・マンの二人の著者を表現していたのに対して、ここでは同一の著者像の二様の姿が表現されているわけである。挿絵の下におかれたテクストには、「私の心が経験した苦難と苦しみゆえに、私は目覚め、身を興した」(注24)とある。これに続いてテクストには「朝、私は起きると紙を取り、私の夢をできるだけ正確に記述した」(注25)と記されている。挿絵のプログラムは、冒頭と末尾に二つの著者像を配することによって夢物語を枠取るしくみとなっており、創造の源泉である「私の夢」と、「記述」という著者活動の二つの側
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