2家綱政権をめぐる画事―171―――武家文化と狩野派――研 究 者:城西国際大学国際文化研究センター 研究員 門 脇 むつみはじめに徳川四代将軍家綱(1641〜80:将軍就任は1651年)の治世は、戦乱から泰平の世への転換期であり、文治主義が喧伝され、武家に文武の兼備が求められるようになった時代である。そのなかで、武家における画事の嗜好や意味は大きく変化し、そのことは当然ながら、御用絵師狩野派の動向に関わる。しかも、狩野派にとってこの時代は、幕府草創期から流派を主導してきた探幽(1602〜74)がその半ばに没し、社会的要請と派内の事情の双方に応じた新しい体制づくりをすすめるべきときであった。そうした点に注目すれば、江戸時代の武家文化、狩野派を考える上で重要なターニング・ポイントの一つといってもよいだろう。本報告は、そのような観点から、家綱政権にまつわる画事の文化史的意義を提示しようとするものである。ただし、その総体を論じるには、より継続的な調査研究が必要である。そこで今回は、それを象徴する「武仙図」の検討をもって、端緒としたい。武仙図の概要「武仙図」とは、歌仙図や詩仙図の変種で、武に秀でた人物、すなわち「武仙」の像と賛および伝を複数並べあらわすものである。今や知られざる存在(注1)であろうが、当時にあっては、将軍をはじめ上層武家を中心に愛好され、幕府御用儒者である林家が監修し、狩野派中枢の画家が筆をとる極めて重要な作品であった。作例は、〔表1:武仙図一覧〕にみるように、現存および記録で知られるものをあわせて22点が確認でき(注2)、描かれる人物の属性によって、中国の武将を描く中華武仙図、日本の将を集めた本朝武仙図、日中を組み合わせるものの三種に分かれる。なお、武将の顔ぶれが判明する作品について、それを〔表2:武将名一覧〕にまとめたので参照されたい。登場人物の数は三十六、五十、百、その他で、画面形態としては小画面貼り付け屏風、画帖、扁額が認められる。歌仙図と同様に、小画面の下部に坐像を描き、上部に人となりを説明する伝と讃える賛詩とを書す形式を基本とするが、絵と書を別画面とする場合もある。また、作品によっては絵のみ、また武将の名のみで伝や賛を伴わないものもある。代表的な作品として、中華武仙図には、現存しないが榊原忠次が制作した①(○番
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