鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―172―号は〔表1〕に基づく)、将軍家綱が発注し酒井忠勝に下賜した⑤、現存する中華三十六将図に岡山藩御用絵師狩野守則(1630〜1704?)筆の③(個人蔵)、幕末には井伊家に伝来した常信(1636〜1713)筆の④(彦根城博物館)がある。本朝武仙図には、本朝三十六将図として家綱発注で安信(1614〜85)筆の⑯(現存不明、売立目録にて一部の図を確認)、珍しい扁額の作品⑰(七曲神社)、現存しないが安信筆の扁額であったと推定される⑱、仙台伊達家旧蔵で同家と深い関わりをもつ益信(1625〜94)作品⑲(個人蔵)がある。また、これら肉筆作品とは別に数種の版本がある。『武仙』は、林家初代羅山(1583〜1657)の著書として伝わり、肉筆の武仙図の草創と関わって林家周辺でつくられたようだが、版本自体に林家の名、刊年がみえず、同類の版本『詩仙』、『儒仙』との関係もはっきりしない。また、『本朝百将伝』(明暦二年、大西与三衛門尉俊光版)は、後々まで類本がつくられるほど知られ、やがては浮世絵の武者絵へとつながっていく重要なものである(注3)。ただしいずれも、武仙図流行への寄与、肉筆の粉本的な役割を果たしたのか否かなどについて判断が難しい。しかし、版本という量産可能な媒体で武仙図が行われたことは、今や忘れられたこの画題が、江戸時代にはそれなりの認知度をもって愛されていたことを証しており、興味深い。武仙図は林家によって発案された。当時の林家は、幕府の文化政策の指南役であり、画事についても、画題の提供、新古作の序跋の制作、鑑定など、あらゆる面で強力な監修者として、特定の絵画を幕藩制下における文化的所産として位置づける役割を果たしていた。その林家が生みだし、推奨したゆえに武仙図はこれほど浸透したといえる。その発想は具体的には、石川丈山(1583〜1672)が創始した中国の詩人三十六人を列する「三十六詩仙図」(詩仙堂)に関与した経験(注4)を生かし、中国で伝統的に行われてきた武将伝ないし功臣図を参考にした結果と考えられる。当初は、林家の親しい友人である榊原忠次、あるいは林家自身のためにつくられた①、②のように多分に私的なものであったが、林家がこれを文武を兼備すべき新時代の武家にふさわしい画題としてすすめ、武家の側もそれを必要とし、狩野派も家の維持と繁栄に有効な作品としてこれに取り組んだ結果、またたく間に将軍自らが発注者となる公認の画題となったと推測される。林家の二代鵞峰(1618〜80)は、「世に普く流布す(漢文の原文を読み下し)」、「士林の家々にこれ有り」(『国史館日録』寛文5年9月22日条)と、武仙図の流行を伝える。しかし、現在、確認できる遺品はさほど多くない。まず、これを忘れられた存在にした理由の一つは、絵画的魅力の乏しさであろう。残念ながら、武仙図の大部分は

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