―173―絵としてはおもしろみに欠ける。図様は武将の坐像を向きやポーズにほとんど変化をつけず並べ極めて単調で、様式も武将にふさわしい覇気や力強さがない。新興のそれも時代に密着した画題であったことをさしひいても、歌仙図が、伝統を背景に、工夫された図様、内容にふさわしい典雅な様式によって、長く描き継がれるのと対照的である。いま一つの要因は、江戸時代の終結とともに武家という本来の受容者がなくなり、さらに近世から現代への歴史的変遷のなかで武将を描く絵画の意義が変化したことと考えられる。近代になっても「歴史画」としての武将図は人気であったが、やがて平和を謳歌する時代の訪れとともにそれも廃れ、現代では武将はかつてのように逸話や故事が知られた親しい存在ではなくなり、武将図が好んで鑑賞されることもなくなった。このような事情ゆえに失われた作品も少なくないだろうし、武仙図以外の名前で呼ばれているもの、武仙図と認識されていない作品はまだ多いと考えられる。武家と武仙図それでは、当時の武家にとって、武仙図とは何であったのか。まず一つに武家としての意識を高めるもの、絵と付属する賛や伝を通して、さまざまなタイプの武将についての知識を得、彼らに憧れ、自分自身をそれに重ねることで、武家という身分への誇りと自覚を促す効果をもったものであった。鵞峰は⑬の序文で、武仙図には「能」でいえば良将、名将、智将、仁将、勇将など、「任」でいえば大将、副将、別将、騎将などあらゆる武将が伝と絵であらわされているゆえに、武将についてよく知ることができるとしている。ただし、現存する作品の多くは屏風であれ画帖であれ、ある程度豪華な体裁をもち、武家の御道具としての性格を強く示すことから、決して頻繁にみるものではなく、あくまで所持することに重点がおかれていたと考えられる。二つめに、一つめの点と関わるが、子弟の教育に適した教科書的なものであったとみてよい。絵を伴うという特性は、享受者として子どもをより想定させる。また、三つに武運長久の祈願を込めるものでもあった。扁額の⑰は、そうした祈願による制作であることが判明している。なお、第二、三の目的に叶う制作契機として考えられるのは、男児の誕生や元服であるが、現在のところ、それを裏付けるような資料はみいだしていない。そして、四つめに、将軍公認のこの作品の所有が、徳川家への忠の表明ないし将軍周辺の上層武家の仲間意識の確認となっていたことが考えられる。初期の武仙図の関係者の多くは、家綱政権の重鎮、側近であり、彼らの交友のなかで、連鎖的に制作が行われたと推定できる。また、家綱が十一歳で将軍に就任した、しかも絵を好む少年
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