鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―174―であったことが、彼ら上層武家が絵入りの武将伝を歓迎した背景にあっただろう。新将軍が武仙図の教育的効用、武運長久の祈願を訴えるにふさわしい少年であったことが、流布に大きく働いたと考えられる。家綱をはじめ幕閣の大部分にとって、戦は、実戦経験もなければ、今後の可能性もない、極めて現実味のないものであった。従って、武仙図が戦を前提とした教科書的な役割や武運祈願の意味をもっていたといっても、実のところ建前でしかない。当時、戦や武将についての知識は、文武の武ではなく文に属す教養となっていた。戦とは無縁の武家が、静かに坐る武将たちの絵を眺める、という武仙図のあり方は、まさしく家綱時代の象徴といえよう。狩野派と武仙図武仙図の主要作を、狩野派それも安信、常信、益信といった探幽の弟、養子、甥という当時の中心的な画家たちが描いていることに明らかなように、狩野派と武仙図の結びつきは強い。そのことは同派にとって、大きく二つの意味をもったといえる。一つは、ポスト探幽時代の体制づくりとの関わりである。意外なことに将軍公認のこの画題に探幽が筆をとった形跡が認められない。探幽は、武仙図の誕生、発展期にも存命しており、御用絵師の長であった彼が参加していないことは、武仙図に少し遅れて制作された、やはり将軍家綱が関与し、同派が描いた歌仙図(注5)が探幽の先導で盛んであるのと比べると奇異にさえ思われる。しかしそれは、探幽没後を視野にいれた体制づくりのための戦略であったと考えられる。探幽の抜きんでた画才、とりわけ情趣的で瀟洒な洒落た画風は、安信以下、探幽の後継者たちにまねのできるものではなかった。武仙図こそは、そうした探幽個人の技量、魅力に頼らずに制作できる、流派の存続に極めて有効な画題であったのではないか。単調な図様、平板かつ明快な様式を特性とする武仙図は、探幽によらず、どんな画家にも均質な作品の制作が可能である。それは、安信が探幽没後にあらわした画論書『画道要訣』でいう「学画」にあたるものといってもよいだろう。加えて、武将をテーマとするために、武家がある限り需要が期待できる点でも申し分ない。なお、安信の個性は武将図に適しており、彼がそれを得手としていたことも、その主導で武仙図を制作する大きな理由となったと推測する。すなわち、狩野派は武仙図を、探幽没後にも有効な画題と見込み、そのために探幽は敢えて積極的にこの画題に関わることをせず、安信以下があたった、狩野派内でそうした住み分けがはかられていたと推測する。つまり、武仙図は、十七世紀後半の狩野派の動向を非常に端的に反映した作品であったといえる。

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