鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―175―二つめは、武仙図が結果的に、「粉本主義」と称される、その後の狩野派の様式、制作姿勢の原点と位置づけられることである。武仙図の絵としての魅力のなさは既述の通りであるが、問題にすべきは、それにもかかわらず、これが流行し歓迎されたことであろう。狩野派をもってすれば、もう少し図様に工夫を凝らすことも、新しい表現を模索することも可能であったはずである。実際、新味ある図像を求めたものもないわけではない。たとえば⑱は現存しないが、安信が作画にあたって兵学者山鹿素行に装束についてなど尋ねており(注6)、意欲的な制作がうかがわれる。また、⑲は、一画面に二人以上を描く図や、人物にまつわる逸話を示唆するモチーフを描き込むなど、個性的な図様が目を引く(注7)。しかし、それらはむしろ特殊な例というべきで、一定の図様をそのまま描くことで成り立つのが武仙図の特徴であった。そして、このことは、武仙図という画題においては基本的に絵画的魅力があまり大きな意味をもたなかったことを示している。武家にとって武仙図は度々みひらいて、しみじみ楽しむのではなく、制作し、所持することに意味があった。魅力的な内容よりも体裁が重んじられた。また、林家も、武家に広くこの画題を浸透させるため、凝った図様は望まなかっただろう。とりあえず武将が並んでいればそれで十分である。そして、狩野派にとっても、単調な図様でこと足りた。同派が室町時代から明治時代の初めまで、四百有余年にわたって画壇の主導者として存続した大きな理由は、その芸術性とともに、支持層に応じた画題、様式の開拓をなした政治性にある。武仙図は、泰平の世という新しい段階に達した徳川政権を支持層に、武家の御道具として創出された画題であり、それには品よく単調な図様と表現がふさわしかった。享受者である武家が絵画的な魅力を重視しないならば、絵はつまらなくなるのである。武仙図に認められる図様や表現の洗練や独創性を追求しない、絵画鑑賞の楽しみを軽視するこの姿勢は、武家の御用絵師として粉本主義のもとで鮮度の低い絵を描き続けていく、その後の狩野派の出発点といってよいだろう。むすび家綱時代の絵画は、そもそもこの時期が桃山時代の風の遺る家光政権時代と元禄文化が花開く綱吉時代の狭間にあって、それら前後する時代の作品と比べるとその多くが美的な質においてやや劣るために、これまであまり関心が払われてこなかった。しかし、家綱は徳川歴代将軍きっての画好きであり、彼自身が関わって多くの高質かつ個性的な作品を遺しており(注8)、その様相を探ることは、文化史的に少なくない意義を有すといいたい。今、それを代表する武仙図を具体的にとらえたことで、その

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