鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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注管見の限り、武仙図に関するこれまでの言及は以下の、いずれも国文学の研究である。中村幸彦「林羅山の翻訳文学―『化女集』『狐媚鈔』」『中村幸彦著述集六』中央公論社 1982年、鈴木健一「『詩仙』『武仙』『儒仙』」『書誌学月報』261995年。なお、本文後述の版本の一種については武仙図としての扱いではないが注■がある。 売立目録中にこれ以外に可能性のある作品を散見したが、棒目録ないし図版の掲載が一部であるなど内容の詳細が不明で、武仙図と確証できず、本稿では取り上げない。なお、作品の調査について、次の方々に大変お世話になった(所属は調査当時)。記して心より感謝申し上げる。岡山県立美術館 守安収氏、中村麻里子氏・仙台市博物館 樋口智之氏、内山淳一氏、齋藤潤氏・彦根城博物館 高木文恵氏・御津町教育委員会 長谷川一英氏、七曲神社管理 中村博明氏。また、7について、〔表1〕参考文献により存在を知り、詳細を近藤壮氏よりご教示いただいた。■武者絵との関係を述べるものに次の論考がある。木村八重子「武者尽し小考─武者絵本の問題をめぐって」『(展覧会図録)日本の子どもの本歴史展』東京都庭園美術館 1986年、岩切友里子「浮世絵武者絵の流れ」『(展覧会図録)浮世絵大武者絵展』町田市立国際版画美術館 2003年。■丈山は三十六詩仙を林家と相談し決定している。また、林家は正保2年(1645)には上野忍岡の別業内詩仙堂に飾る作品を制作する(『読耕斎詩集』六)。なお、「三十六詩仙図」は狩野探幽の筆になり、その成立は詩仙堂建立の寛永18年(1641)頃とされる。■これらの歌仙図については、次の論考に詳しい。松島仁「初期江戸狩野派の歌仙画帖―探幽、■素行会編『山鹿素行先生日記』(東洋図書刊行会1934年)による。なお、安村敏信氏が「画論の意図するもの」(同氏校訂『[定本]日本絵画論大系四』ぺりかん社 1997年)で本資料を引用、紹介されており、それによって記事の存在を知った。■なお、仙台伊達家伝来であることが箱書、売立目録によって判明する⑲は、描かれる二人の人物と同じ姿かたちが、同家五代藩主吉村(1680〜1751)が下絵を描き、長谷川養辰(?〜1726)が本絵を制作し、享保9年(1724)になった「伊達家歴代画真」(仙台市博物館)収載の二十一人のうち二人に認められる点でも興味深い。制作年代からして、おそらく吉村の時代に⑲が―176―一端を示し得たのではと思う。武仙図は、家綱時代に特有の政治的、文化的状況と密接に関わって生まれ、展開し、それゆえにやがて忘れられていった極めて時代性の強い画題である。しかし、それは、江戸時代の美術を考える上で主軸の一つとなる御用絵師狩野派の転機を反映したものとして、さらには本報告ではふれなかったが江戸時代の武将図の系譜、武家の肖像画、画事における儒学者の役割など他の多くの問題との関わりでも、重視されるべき作品群である。江戸時代の美術については、新出作品の紹介、最新の研究に基づく展覧会などが近年ますます盛んで、その表情の奥深く多彩な様が明らかにされつつあるが、武仙図を認識することもまた、それに大きく寄与すると考える。安信を中心に―」『國華』1298号 2003年。

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