$文年間(1661〜73)を中心とする四代将軍・)川家綱(1641〜80)の治世は、将軍を頂点とする統一的な知行体系が整備される傍ら、幕府内の諸制度も属人的なもの明I大火後の江戸復興を契機として、$文期は文化の中心軸が京都から江戸へと移―181―3G文期における〈歴史画〉の誕生――楠公図を中心に――研 究 者:學H院大学大学院 人文科学研究科 博士後期課程 松 島 仁序章 家綱政権下の文化再編事業と〈江戸〉文化の誕生から官僚制的なものへと転換され、朝幕関係も一応の安定をみる。武断政治から文治政治への転換期と評価される家綱政権期は、同時に)川政権独自の文化伝統の構築―中世的な〈知〉の体系の収奪と再編成の最終段階に当たり、一種の文化再編事業ともいえる政策が展開された時期でもあった。六国史以来の正史となる『本朝通鑑』($文10年〈1670〉成立)の編修事業は、その代表的な例である。動し、文化の生産者や享受者も上層から低層へと大きく流れ始める文化史的な転換期でもあり、この流れのうえに後の時代の文化は形作られていく。$文期は、桃山―本稿では、そのなかから$文期を境に出現した新しい絵画ジャンル〈歴史画〉とその背景にある同時代の政治思想や歴史観、歴史意識ついて、主に南朝方の武将・楠正成を描いた、いわゆる楠公図に着目して考察を加え、$文期絵画の新傾向について考えていきたい。第1章 文献史料中に確認できる楠公図とその着賛者『本朝通鑑』編修に代表される家綱政権の文化再編事業のもと、$文期には家綱周辺で多くの絵画主題が編み出され、それらはしばしば江戸狩野派の新様式によって表された(注1)。一方『本朝通鑑』編修を担当したのは林鵞峰(1618〜80)以下、林門の朱子学者であったが、鵞峰のもとへは、全国から修史事業に必要な史書や史料、典籍類が集積された。こうしたなか鵞峰やその周辺では、厖大な量の知的情報の蓄積を背景に〈歴史〉意識が釀成され、それを視覚化した絵画作品も生み出されるようになる。ねおいの文化が形成〈武断〉の文化から脱却し、江戸時代の、そして新しい都・江戸根生される、まさに〈江戸〉文化誕生の季節でもあった。こうしたなか探幽(1602〜74)、安信(1614〜85)以下の江戸狩野派第一・第二世代も、家綱政権下の文化再編事業に組み込まれ、この文化史的な地殻変動に深く関与していく。
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