關K、諸L孔明など中国の歴史人物画への賛が収められるが、楠公図の着賛数は他を$文期は次代にようやく官学的な肩書〈大学頭〉を得ることになる林門の朱子学が、―182―林鵞峰周辺の史料からは、和漢の歴史人物に取材した絵画が多く制作される様子を窺い知ることができるが、とりわけ楠公図は、質量ともにその代表的な例である。鵞峰の日記『國史J日%』(以下『日%』と略称)には、7図にわたり楠公図への着賛の記事を認めることができるとともに(注2)、『鵞峰林學士全集』(以下『鵞峰全集』と略称)には、楠公図に施された賛が計28図収められている(注3)。『鵞峰全集』には楠正成以外にも源義經や兒島高)、武田信玄など日本の歴史人物画、張良や圧倒している。楠公図に施された賛は、このほかにも鵞峰の弟・林讀耕齋(1624〜61)の『讀耕先生全集』や人見竹洞(1637〜96)『竹洞全集』など林門の朱子学者、山崎闇斎(1618〜82)『垂加文集』、安藤省菴(1622〜1701)『省菴先生遺集』、木下順庵(1621〜98)『錦里先生文集』、伊藤仁齋(1627〜1705)『古學先生詩文集』、朱舜水(1600〜82)『朱舜水先生文集』など同時代の儒学者の詩文集にも広く確認することができる(注4)。兼ね備へ、忠義殊に専なり」(林鵞峰「楠正成像」〈『鵞峰全集』文集巻百七〉。原漢文・括弧内は筆者〈以下同じ〉)に代表されるように、楠正成の智謀が強調されるとともに、君臣・父子間の忠孝といった儒教的な美徳が称えられる。とりわけ鵞峰による賛では、正成はしばしば孫子や張良など中国の歴史人物に準拠しながら語られる。後述するようにこれは〈和漢一轍〉という中国史を規範とする林家史学の歴史叙述のスタイルに倣ったものである。楠正成は、優れた軍略家として兵学諸流派においてすでに神格化された存在であったが、楠公図へは山鹿素行(1622〜85)のような兵学者によっても賛が施された。素行の「楠公贊」(注5)において楠正成は、「夫れ其の正に居て私の為に変ぜざるを義と曰ふ」「天下事なければ則ち之れを礼義に用ひ、天下事あれば則ち之れを戦勝に用ひて敵なく、之れを礼義に用ふれば則ち順治なり」と、私に対し公を絶対化し、戦時の軍隊統制法を平時の政治学に応用した〈兵営国家〉の政治思想―兵学的観点から読み解かれていく。大名や幕閣内に一定の支持と理解を得ながら定着する。同じ時期には山崎闇齋や熊澤蕃山、木下順庵など林門とは立場を異にする儒学者も活躍し、それぞれ保科正之や池田光政、前田綱紀のような幕政の指導的立場にある大名と結びつき、その政治思想やならこれら儒学者による賛では、「孫武肩駢ぶ。幄籌精密。子房(張良)心伝ふ。智勇
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