鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―183―政治姿勢に影響を与える。一方、伊藤仁齋や山鹿素行らは、孔子や孟子の原典を範とする古学(古義学・聖学)を提唱し朱子学に異を唱える。)川日本において$文期は、儒学の春ともいえる季節であった。しかしながら)川日本は、本来的には武士が占領・統治する〈兵営国家〉であり、その政治思想としては、儒学よりもむしろ、理に対し法、私に対し公を優先させる兵学が支配的であった(注6)。$文期には兵学諸派が整備されるとともに、山鹿素行により平時における政治学としての兵学が、儒学―聖学を応用しながら確立され、新興領主階級である大名を中心に強い支持を得る。儒学と兵学は、激しく対立しながらも癒着し合い(注7)、仏教に代わる)川日本の政治思想を構成していくのである。結合し、政治思想が仏教的世界観から独立し、学的に体系化されようとした時期でもあった。こうしたなか新しく現れた絵画主題である楠公図に賛―〈読み〉を施したのが、伝統的に着賛を担当してきた僧侶ではなく、新しい政治思想の担い手である儒学者や兵学者であったことは、その〈歴史画〉としての性質を考えるうえで示唆に富む。第2章 楠公図諸本の検討楠公図は、今なお幾本かがその所在を追跡できるとともに、戦前期の売立目録中にも少なからずその存在を確認することができる。「楠公訣子図」〔図1〕(前田育徳会蔵)は、金沢藩主・前田綱紀の需めにより、朱舜水の賛が施された作品で、$文10年(1670)4月、狩野探幽の筆による。明の遺民で亡命者でもあった朱舜水は、『本朝通鑑』とほぼ同時期に始められた修史事業『大日本史』編纂を主宰した)川光圀の賓客となり、光圀や水戸学派に多大な影響を与えた。祖父・利常の影響のもと幼いころより『太M記』に親しんだ前田綱紀は、朱舜水に楠正成関連の史料を提供して賛を作らしめ、探幽画のうえにそれを揮毫させた(注8)。「楠公訣子図」に施されたその賛文は、『朱舜水先生文集』に収められるとともに、元祿5年(1692)、「嗚呼忠臣楠子之墓」という楠正成の戦没地・湊川に建立された光圀自身の揮毫になる碑文としても撰ばれた。明末の読書人でもあった朱舜水による」など、儒学的観点から楠公の忠孝が称揚される。菊水の旗と松樹のもと、童形の正行が鎧烏帽子姿の正成の前に跪き遺訓を授かるとイデオローグこのように思想史のうえで百家争鳴状態にあった$文期は、思想家と政権担当者があつる賛文は、前述した儒学者たちと同様、「父子兄弟、世に忠貞篤く、節孝一門に萃ま

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