鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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なく始まつて終り靡よ方に就いた武将であるが、これについて賛では「克―184―いうこの前田育徳会本の構図は定型化され、売立目録中にも多く確認することができる〔図2〜6〕。主君への忠と親への孝を二つながら表す「楠公訣子図」は、楠公図のなかでは殊更好まれたテーマであるが、楠公図としてはこのほか菊水の旗のもと椅子に腰掛ける単身像〔図7・8〕や騎馬像〔図9〕、楠正成が聖)太子の予言書『未来記』を読み北條家滅亡と後醍醐帝復位を悟る様を描いた「楠公未来記拝観図」〔図10〕、正成の対鎌倉幕府戦を描いた「千早城図」や「赤坂城図」も選ばれた。これら楠公図は、単独の幅として構成されるほか、複数幅でも表された。五苦楽翁・髻華荘の売立目録に掲載された探幽筆本〔図2〕は、款記から前田育徳会本に4年遡る作例と知られるが、ここで「楠公訣子図」は、〈智仁勇〉の画題に相応しく鷹図とともに三幅対とされる。楠公図は、しばしば南朝方の忠臣をはじめとする『太M記』世界の人物とも組み合わされる。『鵞峰全集』文集巻百七に収められる「義貞正成圓心合圖論贊」は、『日%』$文10年9月晦日条「義貞・正成・圓心合図賛」に対応するものと思われるが、ここで楠正成は新田義貞、赤松圓心(則村)とともに描かれる。このうち赤松圓心はのちに北朝この三者を合わせ描くことについては「今三帥を一幅に合せ図す。勧懲の戒備れり」と理由づける。岡山藩主・池田家の売立目録に掲載された常信筆本〔図4〕では、「楠公訣子図」は、萬里小路藤房と対で描かれる。藤房は、後醍醐天皇の霊夢を楠正成に告げた人物であり、柳川藩の儒者・安東省菴は、『三忠傳』(貞享3年(1684)刊)で正成と藤房、平重盛の3人を取り上げ忠臣として顕彰している。そのため萬里小路藤房は、楠正成と対にするには恰好の人物であったと考えられ、これと同様の組合せは旧高瀬藩主・細川子爵家の入札に出品された常信筆本にも認めることができる。同じく岡山池田家の売立目録には、楠正成とその弟・正季、嫡男・正行を三幅対にした鵞峰の賛を伴う安信筆本〔図11〕も掲載される。この三幅に施された賛は、『鵞峰文集』詩集巻七十九にも収められる。楠公図は、時代や国を異にする歴史人物と組み合わせて描かれることもあった。仙台藩主・伊達家の売立目録には、林鵞峰、人見竹洞、林梅洞ら林門の儒学者の賛を伴う狩野常信筆「中孔明・左右楠公曾我兄弟」〔図5〕三幅対を確認することができる。中幅の孔明図に施された賛は、『鵞峰全集』文集巻百五にも掲載され、奥医師き者なり」とし、

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