$文期が兵学の確立期であることは前述した通りだが、楠正成は、智勇に長けた名将として兵学諸流派において、ともに比較・顕彰される(注12)源義經や武田信玄とも合わせ描かれる〔図6〕。―185―の塙宗悦を介し賛が依頼されたことが判明する。『日%』中には『三國志』に関する記事をしばしば認めることができるが、諸L孔明も關Kとともに、$文期を境に顕著に絵画化されるようになる歴史人物である。田中尚子氏は、『三國志演義』と『太M記』における諸L孔明と楠正成の人物造形の近似性を指摘するが(注9)、孔明と正成は主君への忠義、智略に優れた武将、志半ばでの挫折という点において相響き合う性格を有している。$文期の漢詩人に和漢の同質・同格性を主張する傾向があることは大庭卓也氏が指摘する通りであり(注10)、小沢栄一氏は〈和漢一轍〉という中国史を範型とした史論を林家史学の特質としているが(注11)、ここで孔明と正成は、互換可能な和漢の歴史人物として認識されている。『鵞峰全集』に掲載された楠公図に施された賛では、楠正成はしばしば漢の三傑、つまり張良や韓信、蕭何にも比されながら語られる。伊達家旧蔵本では、同じ日本の歴史人物でありながら時代を異にする楠公父子と曾我兄弟も、忠孝といった儒教的美徳を体現する存在としてパラレルに扱われる。このように$文年間を期に出現する新しい絵画主題・楠公図は、同時代の儒学/兵学思想や歴史観に応じながら、さまざまなバリエーションをとって描かれた。第3章 楠公図制作の背景『本朝通鑑』が編修された$文期には、)川光圀のもとでも『大日本史』編纂が着手された。この未曾有の修史事業の過程で新たに浮上してきたのが、皇統の正閏に関する問題、なかんづく南北朝正閏論だったが、それと揆を一にするように、この時期、楠公図のような『太M記』世界に基づく歴史人物画も出現するに至る。楠公図出現の背景として、まず修史事業に伴う〈歴史〉意識の高揚や醸成、歴史人物への関心の高まりが挙げられよう。ほぼ同じ時期には、『太M記』本文中の人物や事件を評論・批判する『太M記N判祕傳理盡鈔』(以下『理盡鈔』)の講釈が、大名や幕閣も含む武家の間で大流行した。楠正成を理想的な為政者としても描き出す『理盡鈔』は、仁政を行うための政治マニュアルとして、文治政治への移行期に直面し武将から為政者へと転換せざるを得なかった大名たちに積極的に受容された(注13)。とりわけ家綱政権の中枢を占める池田光政や稻葉正則が『理盡鈔』講釈を受講・伝授し、その政治思想に強い影響を受けて
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