『O補信長記』を撰述し織田信長の覇業―近世武家王権の成立の過程を記録した松M―186―いることは(注14)、同政権の基本方針でもある〈お救い〉の政治(注15)、すなわち人命の尊重を旨とする撫民政策を考えるうえで興味深い。これを念頭に置くとき、楠公図誕生の契機として、当時の武家社会における『理盡鈔』講釈の流行とそれに喚起された楠正成顕彰ムードの高揚(注16)も挙げることができよう。こうしたなか藩主自らが『理盡鈔』の普及に努め、その二大拠点ともなった岡山藩主池田家や金沢藩主前田家のコレクションのなかに、『鵞峰全集』や『朱舜水先生文集』などにも賛が掲載される楠公図の基準的作例を確認できることは、『理盡鈔』講釈と楠公図制作の関係について考えるうえで、多くの示唆を与えてくれる。一方、$文期が兵学思想の確立期でもあることは前述した通りだが、この時代、山鹿素行は、聖学を提唱し、それを応用して士道論や兵学思想を確立する(注17)。素行の兵学は、新興領主層の政治思想として、大名・旗本など上級武家を中心に多くの門人を集める。素行は日本を中華とする独自の史論も展開するが、その底流にあったのが林鵞峰とも通い合う〈武家政治必然史論〉(注18)ともいえる武家本位の歴史観であった。これを反映して$文期には、鵞峰や素行周辺で古代から戦国に至る武将を集成・通覧し名数化した列伝的内容の武将図(武仙図)が制作され、この頃より盛行する出版メディアに乗り、版本としても刊行された。これらは林家の場合、〈和漢一轍〉の史論に基づき、主に和漢の武将を併べ集めたものであり、素行の場合、日本中心主義史人一首』を編纂し王朝和歌世界に対峙した\原忠次や、膨大な史料を収集・整理して忠房など、林鵞峰サークルの中核をなす好文大名、平戸藩主・松浦鎭信や弘前藩主・智仁勇を兼備した武将として儒学/兵学双方において顕彰の対象となった楠正成も武将図を構成する一人だが、正成を単独で絵画化した楠公図についても、武家独自の歴史観・政治思想を視覚化した〈歴史画〉として、これら武将図とパラレルな関係にあるといえよう。両者がともに、着賛者と享受者を通わせていることはその何よりもの証左である(注20)。山鹿素行最大のパトロン・津軽家に伝来した「武者画帖」〔図12〕中の楠正成図(題簽には「名和長年」)が素行の賛を伴う「楠公図」〔図14〕と図パトロンで、その兵学思津軽信政など、山鹿素行の有力な門人であるとともに最大の庇護者想・士道論の忠実な実践者でもあった大名のコレクション〔図12・13〕にこれら武将図が含まれていることは(注19)、武家中心史観の形成と武将図制作の関係やその需要層の問題を考えるうえで興味深い。アンソロジー観に基づき日本の武将のみを組み合せたものである。武家歌人による和歌集『武家百
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