$文年間を期に描かれるようになる楠公図は、未成熟ながらも、それまでの合戦絵や―187―像を通わせていることは、楠公図と武将図の位相を考えるうえで興味深い。このように楠公図制作の背景としては、仏教に代わる新しい政治思想としての儒学/兵学思想の確立とそれに伴う武家中心史観の形成も挙げられる。終章 楠公図のゆくえ以上、$文期を境とする楠公図盛行の背景として、大規模な修史事業に喚起された歴史意識の醸成、武家の間での『理盡鈔』講釈の流行と楠公顕彰ムードの高揚、武家の政治思想としての儒学/兵学の確立と武家中心史観の形成が挙げられた。して、中世以来の仏教的世界観―王法仏法相依論の相対化を期待された儒学者や兵学者による賛―〈読み〉がしばしば施された。楠公図は、太平の世のあるべき武士像を、相対峙し激しく拮抗しながらも密接に関連し合う政治思想の両極―儒学と兵学の言説で補強した、きわめてイデオロギッシュな絵画でもあったのである。こうした意味で軍記絵巻などとは文脈を異にする、新しい絵画ジャンル〈歴史画〉の範疇に入れることも可能なのではないだろうか。事実、楠公図は、正)元年(1711)度朝鮮通信使来聘の際に贈られた、いわゆる贈朝屏風において他の歴史人物画とともに〈歴史画〉としての役割を明確に付与されている(注20)。明治3年(1870)には、狩野芳崖により前田育徳会本系統〔図1〜6〕と同構図の「楠公訣子図」〔図15〕が制作されるが、ここでは尊皇攘夷運動に関わった儒者・長梅外により賛が施される。この2年後の明治5年には、別格官幣社の先魁として湊川神社が創建される。楠正成は、明治政府により英雄として公認されるとともに、国家神道の祭祀体系に組み込まれていくのである。こうしたなか櫻井の別れのエピソードは、、、明治6年発行の国語教科書『小學讀本』に挿絵とともに取り上げられ、富岡鐵齋や菊池容齋以下の歴史画家によっても盛んに絵画化される。楠公訣子の図像は、皇国史観、、を背景に模範的な国民る。〈兵営国家〉)川日本の歴史観を反映し生み出された楠公図は、軍装の天皇を戴く新しい〈兵営国家〉大日本帝国の〈歴史画〉として読み替えられていくのである。像として再生産され、人々の脳裡に刷り込まれていくのであイデオローグ江戸狩野派の絵師により多く制作されたそれら楠公図には、新しい時代の思想家と
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