鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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51900年パリ万博におけるフィンランド館についての一考察―202―――ナショナル・アイデンティティの創造――研 究 者:国立新美術館設立準備室 研究員  本 橋 弥 生Ⅰ.はじめに1900年に開催されたパリ万国博覧会(以下「パリ万博」と表記)において、ロシア帝国領フィンランド大公国は、ロシア館から独立した「ロシア分館フィンランド館」〔図1〕を出展した。ヘルマン・ゲセリウス(1874−1916)、アルマス・リンドグレン(1874−1929)、エリエル・サーリネン(1873−1950)(以下「GLS」と略記)による斬新な建築と、アクセル・ガレン(注1)(1865-1931)によるフィンランド民族叙事詩『カレワラ』(注2)を主題にした象徴主義的なフレスコ画やインテリア・デザインから成るフィンランド館は注目を集め、これによってフィンランドの存在やその芸術が初めて広く世界に知られるようになった。パリ万博は19世紀最大規模で、58カ国が参加し、約210のパヴィリオンで構成された。それは、技術開発や産業化によって文明が確実に進歩するというユートピア思想の下、当時の最先端の技術や産業製品と並んで芸術作品等が展示された、混沌とした祝祭空間であった。同時にそれは、見物者に対して各国の国力がまざまざと示される、ナショナリズムが刺激される空間でもあった。1809年までスウェーデン領であったフィンランドは、フィンランド戦争でロシアの領土となった。サンクトペテルブルグの戦略的地位の強化という軍事的な理由でフィンランド獲得に興味を持っていたロシア皇帝アレクサンドル一世は、この地域に自治権を与え、スウェーデン統治時代から継承された西欧的な司法制度やルター派教会を持つフィンランド大公国とし、大公として戴冠した。パリ万博までにフィンランド大公国は約一世紀の歴史を経てはいたが、人口僅か265万人の小国の存在は世界的にほとんど認知されておらず、二等地であったとしても、「列強パヴィリオン(Pavillonsたことは、フィンランドにとって重大な意味を持っていた。その上、フィンランド館は注目を集め、世界にその存在、政治状況、芸術、ライフスタイルをアピールすることに成功した。パリ万博フィンランド館は、1990年代以降に欧州で出版されたアール・ヌーヴォーに関する概説書には記述される傾向にある。しかし、まだ十分に研究されてはおらず、日本においては伊藤大介氏による論考(注3)があるのみである。数少ない先行研究des puissances étrangères)」〔図2〕が建ち並ぶ区画に単独でパヴィリオンを出展でき

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