―203―(注4)を礎にしつつも、本稿では、建築の側面だけではなく、応用美術、絵画等から成る展示そのものを一つの総合芸術的な作品として考察することを試みる。後にアルヴァール・アールトら世界に名立たる建築家の巨匠たちを生み出したフィンランド建築の原点もこのフィンランド館にあると筆者は考えるため、建築としての側面は無視できない。しかし、フィンランド館の重要性は、建築の枠組みにとどまらず、それが美術、デザイン、ひいては国のアイデンティティ形成の礎になる程までの影響力を持ったことではないだろうか。そしてその全貌は、今日まであまり注目されてこなかった内部展示を含めた考察によって初めて明らかになると考えられる。建築、美術、工芸、デザインの巧みな連携による展示は、フィンランドの知識人たちの叡智と技能が集められた一大国家プロジェクトであり、フィンランドの日常を視覚的に訴える展示は、革新的であった。紙面の制約上、具体的な個々の事象に関しての検討は新たな稿に譲り、本稿は問題意識の大まかなスケッチにとどまる。Ⅱ.1900年パリ万博におけるフィンランド館フィンランド館の出展は困難を極めた。建国時とは対照的に、1894年に即位したロシア皇帝ニコライ二世は、帝国内におけるフィンランド大公国の自治権を最小限に制限した。彼は1899年2月に、フィンランド大公国のロシア化政策を推し進める所謂「二月宣言」を発布した。それに対する反動として、フィンランドのナショナリズムは万博直前には頂点に達しており、両国の対立は緊迫した状況にあった。パリ万博単独館出展の契機は、法学者でありセナーッティ(注5)議員であったレオ・メケリン(1839−1914)に端を発する。彼は、1896年冬からパリ万博にフィンランド館を出展することについての持論を、新聞を通して展開していた。翌年秋、ロシア皇帝はその要求を認可し、全体のコミッショナーにはフィンランド国歌を作詞した国民詩人ヨハン・ルートヴィヒ・ルーネベリの息子ロベルト・ルーネベリ(1846−1919)、芸術コミッショナーには画家アルベルト・エーデルフェルト(1854−1905)、産業に関する展示の責任者にメケリンを任命した。ロシア皇帝からの承諾を取り付けた後、フランスとの交渉も難航を極めた。一度はフランスに断られたが、コミッショナーたちの熱心な交渉により、狭い出展場所が辛うじて獲得された。セーヌ河から通りを一本入ったルクセンブルク館とブルガリア館の間の二等地であった。実は、フィンランドは既に1889年パリ万博において単独館〔図3〕を出展している。89年万博が、フランス革命百周年を記念する趣旨であったため、それに賛同できない
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