鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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注アクセル・ガレン(Axel Gallén)は1907年にスウェーデン語名をフィンランド語アクセリ・ガッレン=カッレラ(Akseli Gallen-Kallela)に改名した。1900年万博を扱う本稿ではアクセル・ガレンと記述する。 1848年に医師エリアス・リョンルートが農村に残っていた民間口承詩を基に編纂した物語。キリスト教伝来以前のフィンランドが詠われており、フィンランドの歴史と文化の独自性を証明する根拠として重要な存在である。■伊藤大介「1900年パリ万国博覧会フィンランド館―ナショナル・ロマンティシズムの文化運■伊藤氏以外のパリ万博に特化した先行研究は以下の通り。Erkki Fredrikson, Suomen PaviljonkiPariisin maailmannäyttelyssä1900.(フィンランド国立建築博物館での展覧会カタログ):Anna-Liisa Amberg, “Suomen Paviljonki Pariisin Maailmannäyttelyssä1900”, Finnmagyar, 2004.(ガッレン=カッレラ美術館(ヘルシンキ)とエルンスト美術館(ブダペスト)で開催された展覧会カタログ内の論文)。19世紀以降のフィンランド館をテーマにした重要な研究としてはKerstinSmeds, Helsingfors-Paris, Finland utvecklas till nation p˚a världsutställningarna1851−1900, Vammala,1996とPeter B. MacKeith, Kerstin Smeds, The Finland Pavilions,Tampere, 1993がある。■フィンランドの最高行政機関。フィンランド人のみで構成され、決定事項は、ペテルブルグに■これをきっかけに建築家エリエル・サーリネンのヴィープリ駅(現在はロシア領、当時はフィ■Isidorという名の由来はこれまでの研究では言及されていない。フィンランド国民人口の殆どが■Ritva Wäre, Rakennettu Suomalaisuus, Suomen Muinaismuistoyhdistyksen Aikakauskirja,(ヘルシンキ1879年女性画家ファニー・シューベリが、民俗的なテクスタイルと現代のテクスタイルの融合1898年12月26日付ルイス・スパレ宛のガレンの書簡には、イリス工房とフィンランド手工芸友好協会から、フィンランド館のインテリア一式の依頼があったことが記されている。Juha Ilvas,『フィンランド産業誌(Suomen Teollisuuslehti)』(1894年5月1日第9号)等に掲載されている。幸福をもたらす魔法の物体で、具体的にそれが何かは誰も知らない。空気から小麦粉、塩、金―209―総合芸術的な民衆の日常を展示した館によって果たされたのである。理想、幻想、現実の混ざった万博の展示が、そこを訪れた人々に現実として受容され、やがてそれに端緒を得た建築やデザインがヘルシンキの現実空間に出現し、確固としたフィンランドのアイデンティティとなり継承されていった。フィンランド館によって「フィンランドらしさ」の共通認識が形成され、それがフィンランド国家、建築、美術の礎となっていったのであるが、これについての論及は別の稿に譲る。動と建築」『Matrix』No.9、東海大学芸術研究所、1991年、13〜23頁。駐在するフィンランド国務大臣が皇帝に進言し、皇帝自ら執政した。ンランド第二の都市)にもヴィクストロムの作品が置かれた。農民であったため、農夫の聖人イシドルスが奉られたとも考えられる。大学博士論文),Helsinki, 1993, p. 176に条件の詳細な記述あり。を始めたことが契機となり創立された。詳細な研究は、Wäre, op.cit., pp. 39−52を参照のこと。を創る水車場のようなものだとされてもいる。鍛冶のイルマリネンによって鋳造された。

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