鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―217―たらすものは、中央の祭壇とならんで、この天井からつり下げられるランプ列である。1906年に始まった設計は、タウトがフィッシャーの事務所で働いていた時期と重なるから、タウトがこの作品を知らなかった訳はないであろう。もちろん、ここでタウトが旧・日向邸に教会建築の構造を持ち込んだと主張するのではない。そうではなくて、タウトの空間感覚と光の感覚のなかで、西洋的ないしキリスト教的な要素が当然ながら基軸をなし、その造形感覚と文化意識がこの空間のなかにある種の「型」のようなものとしてあらわれる、ということを指摘したいだけである。この社交室の空間は、建築空間であるとともに、日本と西洋の精神文化の混交とも言うべき出来事であると思われる。つぎに洋間の階段部分と上段の意匠〔図5〕について考察したい。ここは、およそ日本建築の室内空間としては異質の、タウトが「海への眺望のための展望台」と書き記さなかったならば、実用目的が何であったかを疑わせるような空間である。しかしここでも教会建築の祭壇空間を想起することができる。もちろん、ここでひとつの反論が予想される。それは、教会の内陣には必ず祭壇画Altarbild が懸っている、ということである。旧・日向邸の洋間上段は、空っぽである。そして隠し戸棚のような部分があるだけである。しかし、ここでも社交室とおなじことが言える。すなわちタウトはここで祭壇そのものを作ったのではなくて、そのような造形感覚と文化意識のもとで、和室建築の内部に、ある特異な空間をつくったのである。まずは、洋間上段はタウトの言うBildschrein(絵画壁龕、画像を収める棚)の構造をもっている。タウトはこれについて、以下のように述べている。「祝祭空間において絵画は、それ自体が建築の一部分にならない場合は、建築的な枠に収めておくことができる。しかしそれは家具や無数の日常用品と並べることはできない。そして、美しく仕立てられた壁は、輝く色を施され、ないし造形的に分節されて、掛けられたものを斥ける。加えて、日常生活を絵画で囲まれることは野蛮なことである。眼は鈍くなるか、そうでない場合は、精神が吸い取られ、その意志に反して動き出す。絵画、すなわち部屋と結びついていず、それだけで完結した芸術作品は、壁に懸けられてはならない。それは誰の眼にも触れる、ということになってはいけない。芸術感覚を内面化するひとつの可能性は、絵画壁龕にある。これは壁に埋め込まれ、外側は何事もなく、内部は軽く色彩が施されている。―これを開くと、壁龕のなかに芸術作品が輝きを放つ。それは壁龕の上げ蓋を越えて広がる」(注9)。洋間上段は、深緋色の布地を貼った壁に囲まれ、ふたつの行灯を正面に置き、上方に木製の壁龕を持っているだけである。現在はそのな(c)洋間上段

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