7遼代墳墓壁画の研究―224―――各地域の時期別の特徴――研 究 者:神戸大学 文化学研究科 博士課程 李 天 銘10世紀初め、契丹族は東アジアの北部、即ち今の内蒙古の東部、遼寧省の北西部のシラムレン流域に遼王朝を立ち上げた。遼の統治者である契丹族は唐の文化を積極的に吸収しており、埋葬制度においても漢、唐以来の伝統を継承し“厚葬”の風習が流行していた。墳墓には金、銀、玉、磁器、三彩器などの品物が陪葬されると同時に、墓道や墓室に壁画が描かれている。他に棺画、扉絵、掛軸なども飾られている(注1)。これらの作品は遼代絵画研究において最も重要的な資料と認められている。遼代の墳墓壁画は、20世紀初め慶陵の発見より現在に至るまで、すでに85基以上の墳墓で確認されている〔表を参照〕。1998年に出版された『世界美術大全集・東洋編第5巻』では、それまでに発表された67基について掲載されているが(注2)、その後2004年までの間さらに18基以上の新資料が公表された。2004年に鹿島美術財団の助成により発掘現地に行って、収集した最新の資料と研究成果をもとに、遼代墳墓壁画の研究の根幹ともいえる、各地域の時期別の特徴について報告する。遼は契丹族を中心に、漢民族、渤海、奚、吐谷渾、靺鞨、女真などの諸民族も含んだ多民族の国家である。遼の北方地域に住むのは契丹族が中心であるが、他の北方少数民族とともに狩猟や牧畜に従事していた。南方地域に住むのは漢民族が中心で、主に農耕を頼って生活していた。南北の両区域で発掘されたそれぞれ壁画墓は墓主、構造、画題、配置なども異なっていることが多い。本稿では、85基の壁画墓をその出土地域によって四つに分け、その地域的な特徴と時期による変化および地域間の異同について考察していきたい。一 北方地域遼代の統治の中心地域であり、その範囲は遼の“上京”(現在の内蒙古昭鳥達盟巴林左旗林東鎮)と“中京”(現在の内蒙古寧城県)と“東京”(現在の遼寧省遼陽市)に当たる地域(注3)、すなわち現在の内蒙古北東部の赤峰市、通遼市、昭鳥達盟および遼寧省の北西部の遼陽市を含む地域である。ここは契丹族の発祥地であり、唐時代から契丹族の本拠地となり、遼代においても支配の中心地および契丹族の精神的な故郷でもあった。契丹族は“帰葬”、つまり故郷に戻って埋葬するという風習があったため、遼代の壁画墓の七割ほどはこの地域で発見されている〔表No.1−57〕。
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