―225―前期(916−982):遼代前期に属する壁画墓は大部分北方地域で発見され、中でも宝山1、2号墓(表No.1,2)、耶律羽之墓〔表No.3〕、吐爾基山遼墓(〔表No.4〕、葉茂台七号墓〔表No.46〕は遼代の代表的な壁画墓でもある。墓主はすべて契丹貴族である。壁画墓に使用する材料の種類が多く、石条、石板のほかに磚、瑠璃磚も使われている。墳墓の構造は、多室あるいは双室となることが多く、墓主の貴族の身分が影響していると考えられる。墓室の形には二種類あるが、方形が主流で、円形は少ない。墳墓の向きは東向、南向、南東向三つのタイプがあり、いずれも同じ割合でつくられている。東向は契丹族の習俗にある“尚東”の影響によるものと認められ、前期の契丹族の墳墓に特有なものである。南向は漢民族の埋葬習俗から影響を受けていると言われている。南東向はこの二つの習俗を融合したものというのが一般的な認識である。前期の壁画には墓室の壁面、墓室内の石室、墓門の扉にはもちろん、木棺、石棺、木小帳などの葬具の壁面にも描かれていることが注目される〔図1〕。画題を見ると、前期では石棺、木小帳に「放牧図」「遊牧生活風景図」「騎馬狩猟図」など契丹族の遊牧、狩猟の実態を写した景物が描かれている(注4)。これらの画題は南方の三つの地域では発見されていない。墓室の壁面には契丹族の生活を映した「牽馬出行図」〔図2〕「犬羊図」「庁堂図」が描かれている。これらは契丹族の習俗を反映しているといえる。さらに前期の壁画は唐文化の影響を受けていることは注目すべきである。たとえば、宝山1号墓と2号墓の石室に描かれている「楊貴妃教鸚鵡頌経図」〔図3〕「降真図」「高逸図」は、人物、道具など全て一見して漢民族の壁画の特徴が看取される。画風も「唐風」であるといえる。そして最も重要なのは最新の資料によると墓道壁画が、吐爾基山遼墓においてすでに登場していることである(注5)。中期(982−1055):北方地域は依然として壁画墓の中心地域であり、慶陵、陳国公主墓、庫倫旗8号墓〔表No.11,12,13〕などはその代表である。墓主は契丹族貴族の墓主のみではなく、漢民族の官僚の壁画墓も多く発見された。壁画墓の材料はほとんどが磚である。墓室の構成は多室墓も多数存在しているが、単室墓が多くなる。墓室或いは主室の形は、前期にすでにあった円形と方形のほかに、契丹族の特色と思われる八角形と六角形の墓室が出現した。壁画墓の向きは南東向きが一番多く、南向きもあるが、前期にあった東向きの壁画墓は姿を消した。中期の壁画は主に墓道、天井、墓門、甬道、墓室などの壁に描かれている。木棺、石棺、木小帳など葬具の壁面に絵が描かれていることはほとんどなくなる。最も注目すべきものは墓道壁画であり、中期頃から北方地域で本格的に登場する。墓道の壁面
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