鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―226―「牽馬図」は初期の作例であり、画面が比較的簡略で、馬丁1人と墓外に向かってい「出行儀仗図」「功臣図」「四季山水図」などを描いたことは、皇帝という最高の身分に出行儀仗、帰来儀仗などの場面を描くがこれは北方民族に特有的な遊牧生活に関係があると思われる。遊牧、狩猟は契丹族の主要な生活形態であり〔図4〕、墓主の生前の身分や地位、日常生活などを反映させる遼代の墳墓壁画が、それら戸外活動での生活を壁画に表現することを見逃すはずがない。陳国公主墓の墓道に画かれているる鞍馬1頭から構成されている。現存する「射猟図」(遼、李賛華)と比較すると構図、題材など共通点が多く、遼代前期の人馬画から影響を受けていると思われる。これが慶陵では「出行儀仗図」に変化する。慶陵は遼代の最盛期の皇帝である聖宗の陵墓である(注6)。『遼史』よると聖宗は絵画が堪能だという(注7)。自分の陵墓にの象徴であるとともに、絵画への愛情の表れでもあると言える。慶陵の「功臣図」〔図5〕は現存する「功臣図」の中で最も古い作例である。墓室に56人の等身大の立像が描かれており、写実性の強い作品である。また「四季山水図」〔図6〕は遼代の墳墓壁画のなかで最も優れていると認められる作品である。墓室の四つ壁面に春、夏、秋、冬の四季の景色を描くことは、皇帝が生前に統治した世界を死後に住むところである墓室の中に再現したものである。空間的に言えば四つの壁で四つ方向の意味を持ち、時間的に言えば四季のイメージの完備性を持っている。北方地域の中期の墳墓壁画には当時の社会生活を描いたものが多い。墓室の前壁には門衛あるいは侍僕を描かれていることが多い、手に骨朶を持つ門衛なども登場している。墓室の左右両壁には多くの場合「備飲図」〔図7〕、「備茶図」、「出猟儀仗図」或いは物を持つ侍女と男侍などが描かれ、墓主の生前の生活する画面であると認められている。後壁には花鳥屏風を中央に、その両側に侍女が立つという構成の画面が最も多い。墓室の後壁は墓室のなかで一番重要な壁であるが、遼代には墓主の姿を描くことはなく、生活に関係がある題材も少ない。墓頂には花卉文様と雲・鶴図が描かれている。太陽と月による星象図は北方区では中期に入って出現する。後期(1055−1125):後期になると、北方地域の壁画墓は全体に占める比率が低くなるが、これは契丹族の勢力が弱まったことに関連している。墓主は前期、中期と比べて、漢民族の官僚が増え、ほかに下層官吏や平民も増加している。壁画墓の建築材料は殆ど磚である。墓室の構成は、多室墓もまだ存在しているが、単室墓が著しく多くなる。形は八角形や六角形の墓室が最も一般的となる。墳墓の向きは、東南向が多数を占めている。ただし、墓主が漢民族である壁画古墳は西南向が多い。これは墓主の故郷が中原地区、つまり北方区の西南の方向にあることと関連があると言われてい

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