鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―227―る。後期で最も注目されるのは、墓道壁画が増加することである。特に、大画面の「出行図」と「帰来図」が墓道両側に登場している。天井に壁画を描くことも多くなる。画題は儀仗侍衛が多いが、日常生活を表現した「奏楽人物図」、「料理図」〔図8〕もある。墓室内の壁画では、前壁には骨朶を持つ門衛を描くことが多く、他に墓主の身分が低い壁画墓には備飲図、料理図なども描かれている。左右両壁には日常生活を写した宴飲図、侍奉図、料理図が描かれている。契丹族特有の備猟図〔図9〕が描かれていることもある。後壁には花鳥屏風図が描かれており、花卉の種類としては牡丹が一番多いが、菊、蓮、バラなどもある。墓頂には太陽と月による星象図が散見される。二 北京市北京市は、938年以降に遼の統治地区となった。遼太宗は“幽州”(現在の北京市)を“南京”と改称し、“南面官”を設置した。この地域は農耕生活を営む漢民族の居住地であり、7基〔表No.59−64〕の壁画墓が発見されている。前期2基、中期2基、後期3基である。公表された資料によると墓主は全て漢民族である。また墳墓は全て磚で造られている。墓室の構成は前期の2基は多室の構造で、中期は単室2基で、後期は多室構造が1基、単室2基である。墓室の形は全て円形である。墳墓の向きは南向が多く7基あり、東向は前期の1基のみである。壁画は全て墓室に描かれており、墓室外の墓道や天井には描かれていない。保存状態が良好な壁画が少なく、前期、中期の壁画はほとんど剥落している。保存状態のましな壁画をみると、甬道左右壁には侍衛が対称的に描かれている。墓室の壁画は唐代の墳墓壁画の影響を受けて侍女が多く、男侍が描かれているものは珍しい。前壁では墓門の両側に侍女が描かれている。左右両側には日常生活の場面を表した料理図、洗濯図などが描かれていることが多い。後壁は中央部に3扇屏風、その両側に侍女が描かれている。北京市内の墳墓壁画は北方地域からの影響は少なく、契丹族の壁画に多い骨朶を持つあるいは杖を持つ門衛図は珍しく、「出行図」「帰来図」など契丹族の特色の濃い画題は描かれない。遼代の墳墓壁画全体の中において見ると、契丹族壁画の影響が少ない地区であり、中期まで唐末・五代の壁画の画風と画題を受け継いでいる。後期には契丹族の影響と思われる画題も現れるが、依然として漢民族的な画題が多い。

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