鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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*初期文人画における勝景図巻の研究―15―――百拙元養を中心に――研 究 者:慶応義塾大学大学院 文学研究科 博士後期課程  出 光 佐千子1.はじめに文人画における真景図の研究には「真景」や「真景図」の解釈をめぐって、既に多くの論巧があるが、初期文人画における研究は未だ乏しいのが現状である(注1)。「真景」という言葉は、「江戸時代の南画などで、特定の場所の写生に基づいた山水画に対する呼称。」(注2)と定義されるが、1773年に京都鴨川における木村蒹葭堂による酒宴で、『荘子』田子方篇に載る「真を得る画法」に倣い、解衣盤k(自由な姿勢)して真景を写すと詠んだ、池大雅の詩に登場する例が最初である。1799年刊の桑山玉洲著『絵事鄙言』では真景にこそ南画の優位性を見出している。従って、真景といえば、池大雅とその弟子の研究が専らであり、大雅の前世代では、画家が意識して用いた言葉ではないことから、真景的な要素がどのように表れるのかについての研究は未だ少ない。しかし、黄檗僧との交流が知られる狩野探幽のスケッチに、山下善也氏によって真景図の萌芽が指摘されたように、黄檗僧の勝景図巻の中にも既に真景的な要素が見られる(注3)。なかでも、黄檗僧、百拙元養(1668−1749)が描いた「城崎温泉勝景図巻」〔図1〕は、池大雅筆「陸奥奇勝図巻」〔図2〕に先立つ文人画の真景図として、大槻幹郎氏により紹介されている(注4)。百拙元養は、近衛予楽院家熙(1667−1736)の帰依の下、その文化サークルで中心的な役割を果たしたが、画業の全貌は未だ明らかにされていない(注5)。そこで、大雅の前世代の文人画にどのように真景的な要素が表れるのかについて考察するために、具体的な作例の1つとして、百拙元養筆「城崎温泉勝景図巻」を取り上げる。そして、温泉寺の縁起絵・狩野派の地取図などを網羅的に調査し、図巻における図様の借用例を指摘し、その成立背景を明らかにする。また、伝?園南海(1677−1751)・17世紀後半の狩野派の勝景図巻や明末の紀遊図等との比較から明らかになる、本図巻の構図や筆致の特徴を挙げ、18世紀初頭における真景図の萌芽の一状況を報告したい。2.図巻の調査報告百拙元養は近衛予楽院の庇護の下、京都に移住し、海雲山法蔵寺の寺籍を引移する等、予楽院を中心とした文化圏で重要な役割を果たした。百拙の作品には羅漢図(法

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