―236―「花下遊楽図」にも見いだせるが、「花見遊曲図」との比較では同姿型十人、新姿型六りに被衣姿で振り返る女性が一人加わえられている。同様の図様はフリーア美術館蔵人、「士庶花下遊楽図」とでは同姿型十一人、新姿型五人というように、およそ三分の一の姿型が入れ替えられている(注4)。上記姿型の入れ替えは、「媾曳」という主題にほとんど影響を与えておらず、〈かた美術館蔵、図7〕と「花見・紅葉狩図」〔バーク・コレクション蔵、図8〕にみられる媾曳図様を比較すると、後者で新たに加えられたと思われる二つの姿型は、頭上の紅葉を見つめる仕草を見せている。ここでは社頭遊楽から秋景遊楽という設定の違いにあわせ、単なる「媾曳」から「秋景媾曳」へとでもいうべき、〈かたち〉と〈いみ〉両面でのバリエーションの創出が図られているといえよう。その創出に新姿型が一役買っている、というわけである(ただし、後にも述べるように、別の理由によってそれは必ずしも成功していない)。さて、仕草の変化と姿型の入れ替えという、大きく分けて二つの引用パターンをみてきたが、オリジナルの図様が群像で構成されている場合、もう一つ別のパターンが存在する。それは姿型=登場人物の数を減らす方法である。もっともわかりやすい例は〈福井系媾曳図〉群の「扇面画」〔『初期浮世絵聚芳』所載、図9〕であろう。図様のオリジンと考えられる「花見遊曲図」では男女計十六人で構成された媾曳図様が、「扇面画」では六人と激減している。しかし引用された彼らの姿型は、ほとんど変更を加えられていない。主題を体現する「声をかける/かけられる」という、直接的な機能を持った姿型を中心に、図様をほぼそのまま抜き出した形である。おかげで減少した人数の割には「媾曳」という主題への影響も少ない。これに対して、前出の「花見・紅葉狩図」では姿型の減少が主題に影響を及ぼしてしまっている。「直接声をかける」者を除いて男性陣をすべて省いてしまったがために、「媾曳」という主題が曖昧になってしまったのである。男の指さす先には貴人の一行が宴を開いており、一見それに誘っているようにも見えるが、いずれ不明確で形骸化のそしりは免れない。一方、もう少し手の込んだ手法を取って、形骸化を避けようとしているのが先に挙げた「文使い図」群である。承知のように、これらの作品にみられる姿型は「本田平八郎姿絵」にオリジンが求められる。オリジンでは六人の人物によって形成されていた図様が、「文使い図」群では二人に減少しているが、単純に二つの姿型を抜き出すのではなく、人数の減少とそれに伴う状況設定の変更にあわせ、仕草にも合理的変更ち〉の上でのみ変化を追求したに過ぎない。これに対して「北野社頭遊楽図」〔細見
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