―237―ち〉には変化が与えられ得る。多くはバリエーションの創出を狙って積極的に行われは〈かたち〉に新たな〈いみ〉を与える事を目的とする。そしてそれは、先行するが加えられている。こうした改変はわかりやすさを狙ったニューバージョンの創出と言え、一定の成果を上げていると考えられる。しかし、このような図様の数的変更、単純化は、結局のところ主題の単純化につながる。「扇面画」では主人格の女達が消えたことにより、いわゆる「視線のドラマ」(注5)が希薄化しているし、「文使い図」群はわかりやすさと引き替えに、オリジンが想起させる「千姫・本田平八郎伝説」という主題上の深みを失っている。ただ、もとより制作者側はそうした功罪を承知の上で、「功」の方を追求しているように思える。図様の単純化によって主題のエッセンスを抽出し、わかりやすい作品を生み出すことで、受容者層の拡大に対応したと言ったらほめ過ぎであろうか。以上、「引用」の諸例をみてきた。〈かたち〉と〈いみ〉の双方を継承する「引用」において、主となるのは〈いみ〉の方である。同様の〈いみ〉を表すために〈かたち〉をひくのが「引用」の実態と言えるからである。〈いみ〉が主であるからこそ、〈かたたと見なせるが、時にそれは本来の〈いみ〉を忘れ去り、形骸化、単純化の弊害を引き起こす。そこに「引用」の難しさがあると言えよう。○図様の「転用」さて、「引用」が〈かたち〉と〈いみ〉双方の継承を目的とするのに対して、「転用」〈かたち〉が持つ〈いみ〉を、後続がどのように利用するかによって、これも大きく三つのパターンに分けることができる。一つめのパターンは、本来の〈いみ〉を余り重視せず、〈かたち〉を「型」として利用する方法である。「北野社頭歌舞伎図」(神明社蔵)には、先に挙げた「北野社頭遊楽図」の媾曳図様と同じものを、男女が分断された格好で見いだすことができるが、本来「媾曳の一方の当事者」という機能を与えられて、「男性陣を見つめて」いたはずの女性陣は、「見つめる」対象を失い、ただ皆で振り返るばかりである〔図10〕(注6)。形骸化のそしりは免れないが、画家のねらいは「路上を歩む女性集団」という〈かたち〉を添景描写に活用することだったのだろう。「振り返る」という仕草の持つ〈いみ〉=態意をおざなりにしたため、その機能に曖昧さを生んでしまった訳だが、中途半端は承知の上での試みではないだろうか。対して、より巧妙な「型」的転用をみせるのが、「花見遊曲図」〔図11〕、「桜下美人図」〔図12〕、「機織図」〔MOA美術館蔵、図13〕、「湯女図」〔同、図14〕の四作品であ
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