鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―16―「小驪山勝景図巻」は「城崎温泉勝景図巻」とほとんど描かれている範囲とモチーフ蔵寺)や水墨山水、四君子などがあるが、『八種画譜』に倣った余技的な作品が多い。その中でも、百拙元養の「城崎温泉勝景図巻」は、1719年、百拙が但馬豊岡興国寺第五代住持であった時に、兵庫県城崎に紀遊した景観を描いた図巻であり、百拙の作品の中でも稀に見る本格的な勝景図巻である。本図巻は、豊岡から城崎まで円山川の両岸を俯瞰的に眺望した景観図で、伝?園南海筆「紀州写生図巻」〔図3〕(1782年以前成立)や池大雅筆「陸奥奇勝図巻」(1749年成立)と同様に、名所旧跡の上に貼紙がありそこに固有名詞が記されている。景観モチーフは実景に近く描かれており、例えば、「明石」には玄武岩の洞窟が描かれているが〔図4〕、現在でも六角形の玄武岩が柱状に積み重なり、画家の実証的な精神が感じられる。本図巻には、題字に「小驪山」と百拙による墨書がある。画巻の後には「游桃島并引」とあり、百拙が桃島に遊んだ時の感慨を記している。その内容は、「1719年の春、城崎温泉で湯浴みをした後に、桃島に登り、遠くを望んだ。偶々、永覚大師の鼓山志を携えており、芸文のうち、明の銭lの排律すべて二百言が載っていた。これを読んで、恍惚として銭lがいた中国の湧泉寺に遊ぶような気がしてうつむいたり、仰向いたりして、天を吹く風や海の波濤を見る。心が高ぶって歌を詠い、この日の桃島の旅の記録を書き残すことにした。桃島と中国は違うとはいっても、雲や月は同じで天と地の差があるだけのことだ。」とあり、銭lの排律に倣い百拙の排律がその後に続く(注6)。永覚大師とは中国福建省、湧泉寺の英中元賢のことを指し、百拙の師、木庵禅師もかつて師について修行をした。湧泉寺は鼓山の第一名刹であり、黄檗僧にとり憧憬の地であった。清代の黄任編「鼓山志」14巻には巻11「藝文」に、明代の銭lの排律が含まれている〔図5〕(注7)。百拙は城崎で湯浴みをした後、桃島に登って景観を眺めたときに、銭lの詩を思い浮かべ中国の湧泉寺に遊ぶ境地がして、銭lの詩に倣って「游桃島」の排律を作ったとある。百拙は目の前の桃島の景観に、師が修行を積んだ湧泉寺の寺境を重ね、世俗を離れ、自分も仏界に入りたいと静寂な理想郷をそこに求めている。さらに、今回の調査で、この図巻には「小驪山勝景図巻」〔図6〕という別本があることが確認された。題字には予楽院の字を百拙が模倣して、「煙嵐一棹」とある。は同じであるが、「小驪山勝景図巻」の方には豊岡の興国寺が描かれている〔図7〕。百拙が追記した跋文によれば、鶴操軒の泰門という人物が、法蔵寺第二代住持の月船浄潭に百拙の小驪山図を見せられ、画師、山氏に写させたとある。このことから小驪

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