鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―246―〈発注者・制作者について〉〈制作年代について〉もある。各図に添えられた「付札」は、大きく3種類あり、名称の書き方も漢字、かな、カタカナに分かれるなど、制作の状況の違いを反映するものとして注目される。全13帖の内4帖には、長崎に持参して中国人に見せた際の讃や問い、返答を記した墨書がある。これらの図譜の成立に関わる直接的な記録は見つかっていないが、先行研究によって、発注者、制作者および制作年代は次のように考えられている。図譜の制作を命じたのは、高松藩中興の英主とされる五代藩主松平頼恭(1711〜1771)で、その事績を記した記録には、物産の学問を好んだ頼恭が、「箱組」にして収集できない植物・鳥・魚などを、画工に命じて「真物をもって正写し」させ、漢名や和名を調べて付札を付けさせたと記されている(注2)。続いて、制作者としては、後世の高松藩家老の随筆に、頼恭が収集したものを写して名を付した際、「源内すべて是にあずかり助く」(注3)と記されることから、高松藩士であった平賀源内(1728〜1779)が監修者のように関わったことが考えられる。源内は、宝暦11年(1761)に高松藩を離れるが、それ以前は藩の薬草園の管理を行ったほか、帰国する頼恭に随行して各地で貝を採集するなど博物学を介した頼恭との関係は深く、この時期、図譜制作に関わっていたと考えるのは自然なことと言えよう。絵師については二説あり(注4)、一つは天明7年(1787)改の「讃岐高松藩分限帳」の「定江戸」の項に名があることから楠本雪渓とするもので、年代から宋紫石の号を継いだ息子の宋紫山と考えられる。もう一説は、宋紫石に学んだ讃岐小豆島の絵師三木文柳(分流)(1716〜1799)(注5)とするもので、文柳が京都・江戸で絵を学び、源内の著作『物類品隲』の制作に関わるなど源内・紫石と交流があったこと、松平家図譜に類似する魚介図を描いたことなどを根拠とする。ここでは二説の紹介にとどめ、絵師の問題は後述する。松平家図譜全帖の完成にはある程度の期間を要したと想像されるが、基本的には頼恭の存命中、18世紀半ばから後半にかけての時期に制作されたと考えられ、参考事項として以下の4件があげられる。まず、熊本藩8代藩主細川重賢が作らせた鳥類図譜「游禽図」(永青文庫蔵)の奥書に、宝暦5年(1755)、「讃州候の図本」を写したと記されることから、この頃には松平家に鳥類図譜が存在していたことがわかる。ただし、「游禽図」には「衆禽画譜」にない図が4点あり、図の並びも異なることから、同じ図様を含む別本を写したか、

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