―247―松平家図譜が現在の装丁に整えられる以前に写した可能性もある(注6)。続いて宝暦12年(1762)1月29日、松平家から十代将軍徳川家治に魚類図譜が献上される。献上本は現存しないが、その目録の写し「衆鱗手鑑目録」の奥書には、讃岐と江戸の間の海浜で見た海の生き物を画工に描かせ、目次とともに献上したと記されており、目録の内容から、「衆鱗図」と同じ図を多数含む430件を収めた2帖の画帖であったことがうかがえる(注7)。次は、「衆鱗図」第2帖の表紙旧台紙の墨書で、明和4年(1767)の年記と、「松村貞恒」という名がみえる。この帖を装丁した際の銘とみられることから、この頃、松平家図譜が現在の画帖装に整えられた可能性が考えられる。最後に、「衆鱗図」第2帖と「写生画帖」全3帖の表・裏表紙見返しに記された讃がある。これらは、魚や植物の名についての問いに返答した4人の中国人が、いずれも安永6年(1786)6月に長崎で記したもので、年記からみると頼恭の没した6年後となる。讃や返答が図譜に直接書き込まれており、この頃には現在の図譜の装丁が完成していたと考えられる。以上のように基礎情報を整理した上で改めてこの図譜の特色を考えると、各図は、見開きを意識しながらバランスよく配置され、帖や表裏の区切りに余りなく収められており、完成形をイメージした綿密な構成のもとに作られていることに気付く。これは、図の丁寧な描写や、豪華で統一感のある装丁、長崎帰りの帖を除けば名称以外の文字情報が極端に少ないことなどともあわせて、全帖に共通する「鑑賞されること」への強い意識を示すものといえ、この点が松平家図譜の大きな特徴となっている。しかし一方で、細部に目を向けると、松平家図譜の中にも様々な違いが存在している。まず、魚・鳥図譜と植物図譜では、切抜きの有無の差、それによる編集の並びなどに違いがあり、同種の中でも、「衆鱗図」では、後世への転写状況の違いが報告されている(注8)ほか、表紙裂も異なることから、1・2帖と3・4帖の間に区切りがあると考えられる。「衆禽画譜」についても、表紙裂の違いに加え、細川家の「游禽図」に野鳥の写しがなく、史料中にも「水鳥」しか記されない(注9)ことなどから、野鳥帖の成立の遅れなどが想定される。また、「衆芳画譜」では、2帖ごとに名称の書き方に違いがあり、何らかの意識を反映したものと考えられる。このように、松平家図譜には、種類別、または同種でも帖によって成立状況や時期などの違いがある可能性があり、今後の研究を進めるうえでは注意を払う必要がある。その中で、「衆鱗図」は、鳥や植物図譜と比べて描写が格段に細密であり、また近似する魚類図譜が将軍への献上品になるという異例の扱いを受けたことによって重視さ
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