鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―249―ことで、浮き上がってくるような視覚的効果も生みだしている。以上のように、「衆鱗図」に収められた723図は、それぞれこのような数層に渡る作業を重ねて仕上げられている。ここにみられる表現技法は、金銀箔の使用にしても、盛り上げ彩色にしても、個々には絵画の中で伝統的に用いられてきたものである。それが、博物図譜の目線から魚をよりリアルに表現するために組み合わされた結果、独自の表現効果を生みだしたといえよう。3.「衆鱗図」の影響―金銀箔の使用―「衆鱗図」のこの新たな表現技法は、人々にどのように受け入れられたのであろうか。まず、同じ技法で制作されたと考えられる頼恭の魚類図譜は、「別て精密にして世上に無之物」(注11)と評され、求められて将軍への献上品となった。また、第2帖に記された讃には「絶世写生妙手」、「工緻」(注12)という言葉が記され、中国人の目にも驚きをもって迎えられたことがうかがえる。また、寛政11年(1799)、小野蘭山は、堀田正敦邸で「讃候」の「海錯写真折本2冊」を見ながら漢名を尋ねられたと記している(注13)ことから、後世の博物学大名が2冊の魚類図譜(おそらく献上本)を借り出して研究していたことがわかり、後藤梨春や栗本丹州など本草学者たちによって大量の転写図が生み出された状況も想像される。これらの例は、「衆鱗図」が優れた図と内容によって評価されていたことを物語るが、「精密」、「工緻」という言葉は、それが精緻な描写や、工芸的ともいえる表現技法に対して発せられたことをうかがわせる。このことは、「衆鱗図」の転写が図様だけでなく、表現技法についても行われることからもうかがえる。それを魚図への金属箔の使用という点からみると、「博物館魚譜」(東京国立博物館蔵)に収められている本草学者・栗本丹州による金魚などの写と思われる例に、細川重賢の「毛介綺煥」(永青文庫蔵)に収められた魚図〔図7〕がある。直接の関係を示す史料はないが、重賢が松平家図譜を熱心に転写していることを考慮すれば、その影響は充分想定できよう。そして、これが鑑賞画に用いられた重要な例に、松平家図譜を描いた絵師と考えられている三木文柳とその一派の作品がある〔図8〕。これらは、腹鰭2枚を描き、目に漆のようなものを塗り、鯛の鱗に銀箔を貼る(絹本の場合は裏箔)という独特な特し〈鱗に金銀箔を使用〉〔図5〕や、源内とも近しい小田野直武筆とされる「鱒図」〈目に銀箔を使用〉(秋田県立近代美術館蔵)〔図6〕(注14)などが、図様と表現技法、双方ともの転写図としてあげられる。また、図様は異なるが表現技法の影響を受けた

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