鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―250―徴が「衆鱗図」と共通し、何らかの形で両者につながりがあることを確信させる(注15)。現在確認できているのは、文柳の作品4点と、文柳の弟子三木算柳の作品1点、その一派とみられる類似性の高い作品4点の計9点で、小豆島および近畿地方を中心に伝存したものである〔表2〕。これらは鯛を中心に他の魚を組み合わせた図で、形状が似ることから各魚ごとの粉本のようなものを用いて画面を構成したと考えられる。北斎印のある1点も、近似する図様と表現技法が認められることから文柳一派の作として大過ないであろう。これらの作品は、図譜ではなく鑑賞画として描かれているが、制作の主眼はあくまでも銀箔を用いた魚の輝きの表現にあるといえる。現状からみれば局部的に展開した作品群ではあるが、これらは、「衆鱗図」が生み出した表現技法自体が、新たな鑑賞画を生み出す契機となったことを示しており、伝統的な絵画の技法を組み合わせて図譜のために創出された表現技法が、魚を描く技法として、再び鑑賞画の世界へ戻ったという、重要な流れを物語ってもいる。しかし、科学的な視点から対象を表現するために考案されたこの技法は、文柳以降、箔の使用自体が主題となってしまったことによって本来の特徴や新規性を失い、逆に従来の装飾的な意味合いでの箔の使用に近づいてしまったと言えるかもしれない。4.「衆鱗図」の絵師ここで、改めて絵師の問題に触れたい。「衆鱗図」をはじめとする松平家図譜の絵師については、楠本雪渓説と三木文柳説があることは既に述べた。特に前章では、文柳の作品が表現技法の点からも強い関連性を持つことを確認した。しかし一方で、文柳作品の一部は描写力、構成力などにおいて「衆鱗図」と開きがある印象も否めず、また、文柳と松平家とのつながりを示す関連資料がまったくない点も課題として残る。文柳は、源内との交流から、「衆鱗図」の情報だけを入手し得た、と考えることも可能なのである。そこで、絵師について次の可能性も提示したい。「衆鱗図」の絵師は、江戸−讃岐間で対象を「随見」でき、将軍家への献上品を描くことができた人物、ということを考慮すると、やはり高松藩のお抱え絵師を可能性に加える必要があろう。一般に図譜に名が記される絵師は限られているが、細川家伝来の図譜では尾張藩の絵師や浜町狩野家の絵師の名が確認されている。当時高松藩の絵師であった米田随円は、浜町狩野家2代甫信隋川に師事し、細川家の「游禽図」を描いた今村随学とは同門であることも注目され、写生図の粉本を継承した可能性のある狩野家などを通じた絵師のつなが

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