―17―山図には他に百拙の別本があることが分り、「小驪山勝景図巻」では、原本の予楽院の題字を百拙が書し、百拙の跋文を月船が写し、その上、百拙が跋文と成立の事情を追記して、「画妙真本に通ず」と記している。「小驪山勝景図巻」〔図8〕の方には、「城崎温泉勝景図巻」〔図9〕に見られる、はるか中国を眺める4人の中国風の文人と茶を点てる侍童の他に、さらに後ろで腰をおろす制作依頼者らしき人物が加わっている。さて、「城崎温泉勝景図巻」については、百拙が湯島に遊んだ実際の体験をもとに、このような類本がいくつか制作されたことが考えられるが、実際にはどのような名所絵図に基づいて描かれたのだろうか。3.縁起絵・絵地図・絵入り版本の書誌的調査「城崎温泉勝景図巻」には、前述したように、題字に「小驪山」と百拙による墨書があり、題箋には「小驪山勝景」とある。驪山は中国陝西省臨潼県にあり、温泉の名勝地として旧くから知られている。小驪山とは百拙が湯島に対して与えた別名で、温泉の地で知られた湯島を中国の名勝に見立てている。しかしながら、日本において驪山を主題とした絵画作例はあまり知られていない。百拙は、驪山のイメージをどのような文献から得たのだろうか。驪山は五山文学では既に、『驢雪藁』で「驪山温泉宮図」として二首、詠まれている。また、18世紀後期の『合子小草初篋』巻二に「有馬山温泉」と題して、細合半斎(1727−1803)が温泉地として名が知られている有馬温泉を驪山に見立てた例が紹介されている。具体的に、百拙が図様などを参照した可能性が考えられる書籍には中国地方志の類がある。例えば、『陝西通志』32巻図1巻(清 李楷等纂 康煕7年跋刊、国会図書館)や『勅脩陝西通志』100巻首1巻(清 沈青崖等纂 雍正13年序刊、国会図書館)などには、驪山の図様と歴史が詳述されている。「驪山図」は『勅脩陝西通志』巻八〔図10〕に、尖った形状で連なる山々に取り囲まれた飛泉の傍らに、老君殿や老母殿が描かれ秘境を思わせる。また、同書の巻七十二「古蹟一図」〔図11〕に驪山の「華清宮図」が載るが、これにも切り立った山々に取り囲まれた宮殿の様子が描かれている。一方、城崎が描かれた双方の図巻において図様の中央に位置するのは、湯島温泉を中心とする名勝旧蹟の景観であるが、いずれも丸い山々を幾重にも横に連ねて描いており、一見『勅脩陝西通志』等からの影響は見られない。しかしながら、温泉寺のある主山を中心に俯瞰的に捉え、川を挟んで背景に尖った遠山を描くところなどは、『勅脩陝西通志』の大川図、例えば渭水図、洛水図、南m水図〔図12〕などに発想を得ているようである。特に百拙の図巻には、尖った遠山の表現が顕著に見ら
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