―251―りも視野に入れる必要があろう。絵師については、楠本雪渓、三木文柳に、高松藩絵師を加えた三者を想定した今後の研究が求められる。ただし、いずれにしても絵画に様々な素材を持ち込み、独自の表現技法を確立したのは絵師の独力ではなく、監修者の存在が不可欠だったはずである。そこに源内を想定すれば、雲母摺り・きめだしなどを使った錦絵を制作した鈴木春信や、魚介図の作者文柳と交流があり、凹凸をつけた金箔の上に色や膠を塗る金唐革紙の制作に関わったことなどが、いずれも平面に立体感や質感の表現を持ち込む、という表現技法の視点からつながってくる点は注目される(注16)。むすび「衆鱗図」の魚図は、背景から切り抜かれることで空間や時間といった要素から切り離され、雲母引の台紙の上に配置されている。その独特な技法による色や輝き、立体感の表現によって、これらは極めて実物に忠実に描かれた「写実」的な絵と受け取られてきた。しかし、実際は、鰭をのばした側面図という枠に個々の魚を当てはめて描くという点で極めて型の統一化が進んだ絵であり、多くの個体を描写した下絵をもとに、それを生きているように図譜上に再現した、「写生」的な絵といえる。そこでの徹底的な対象表現へのこだわりは、「箱組み」にできないものたちを図譜の中に再現させ、所有しようとした頼恭の思いを反映したものといえよう。また、この再現のために用いられた独特の技法は、「魚をより本物に近く表現する」ために模索された結果、伝統的な絵画に用いられていた技法や素材を新しい目的で組み合わせることで生みだされたものであり、言い換えれば、博物学の隆盛があって初めて実現した、きわめてこの時代を反映した表現技法ということができるのではないだろうか。江戸時代の博物学は、草木鳥魚を対象としていても、生物学だけでなく、歴史や文学、名物学など様々な要素が重なる文脈の中に成立しており(注17)、それゆえ図譜研究には検討にあたって複数の視点が必要であることを改めて認識した。本稿では、「衆鱗図」の検討に終始し、他の図譜まで及ぶことができなかったが、魚鱗への金銀箔の使用に代表される表現技法からの考察により、「衆鱗図」が他の図譜だけでなく、同時代の鑑賞画にもつながっていく一つの視点が示せたと思う。残る松平家図譜についても、図様の細見・比較に、表現技法からの考察を加えながら検討を行うことを今後の課題としたい。
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