鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―260―「柏図」などと記されるように、ほとんど全て松柏を描いたものである。敦煌莫高窟第172窟の「文殊菩薩像」の背景の山水描写が、当時の山水画の広大な空間表現を伝える好例である。以上の考察を踏まえれば、唐代の神仙山水は、単一の仙境を描いた作品もあった一方で、広大な山水景観を大まかな意味での仙境的空間として描いたものも多く、それゆえに詩人たちも自由なイメージを展開しやすい状況にあったと推察される。神仙山水の全盛期は、唐代の中でも道教信仰の高まった玄宗朝(712〜756)であったとみられる。中唐以降、山水画に関する詩の中に東海三山、崑崙山などへの言及は減少し、詠われる地名は中国領域内の著名な名山、名水が主となっていく。仙人や不老不死に対する皇帝や士夫層のあこがれは、中唐以降もなお続いており、昇仙を遂げたという道士の噂が真実のこととして広まっていくこともあった(注6)。しかし、逆に言うとより身近な環境における神仙譚が関心事となっており、現実離れした東海などの仙境に対する興味は、少なくとも絵画鑑賞の上では減退していったようである。4樹石画について神仙山水に代わって中唐以降、詩に多く詠われるようになっていくのが樹石画である。杜甫に2首があるのをはじめとして、以後、晩唐まで多数の詩が残されている(no.26, 27, 33, 41, 47, 48, 49, 50, 51, 53, 54, 55, 61, 73, 79, 82, 85, 88, 92, 96, 103, 109, 110,112)。これらは『歴代名画記』巻1「山水・樹石を画くことを論ず」が記す、韋)(偃)、張(、王宰、劉商ら中唐の樹石画家たちの活動と時期を同じくしており、安史の乱が山水画にとっても重要な転換点であったことが理解される。樹石画家の描いた樹木が、主に松および柏(ヒノキの類)であったことは既に先学の研究に明らかである(注7)。詩に詠われたものも「画松」、「双松図」、「画松石」、画面形式に注目すると、壁画も多いが(no.33, 48, 55, 92, 109など)、掛幅や障屏に描かれて持ち運ばれて鑑賞された例もある(no.26, 49)。詩人が画家に揮毫を頼んだり(no.27)、山翁から酒を贈られた礼として描いたものもある(no.50)。広大な空間を表現する神仙山水に比べれば描写がより簡潔で、制作、贈答がしやすく、詩人達の日常に浸透していったことが窺える。画材や描法に関しては、水墨表現に言及するものが注目される(no.51, 85, 103)。張(の禿筆や手までを用いた狂想的な筆墨法は有名であるが、弟子の劉商の題画詩には「水墨」の語が現れる(no.51)。晩唐の方干には、水墨に関する詩が多く「水墨松

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