鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―18―「曼荼羅」を根底にみたててきた土地の性格から、社寺曼荼羅的な特徴も見られるとれ、舶載された版本との関わりが想起される。百拙は詩文の上だけでなく、図様の点からも中国を意識していたのである。その他、百拙が目にする機会があった資料に、江戸時代に流行した温泉記や旅行記がある。城崎温泉が繁栄した背景には、享保18年(1727)、河合章尭の『但馬湯嶋道之記』により、「ゆしまの湯」の名が知られるようになったことが挙げられる。しかし、多くの旅行案内書が刊行されていながら、現存する絵画資料は少なく、『但馬湯嶋道之記』の他には、文化年間(1810年代)に温泉寺から刊行された一枚刷りの絵入りの『但州城崎温泉観音並びに湯の縁起』〔図13〕がある。両図とも、次郎兵衛塚から温泉寺に至る参詣道を横長に描き、名所を記号的に表現している点、名所案内的な絵地図であり、百拙の図巻と図様の上で直接的な影響関係は見られない。百拙の図巻や別本では、円山川の支流に沿って、両岸に宿場町が立ち並び、四所明神の鳥居を抜けると、極楽寺と薬師堂が並び、温泉寺へと鑑賞者の目を誘う。むしろ、このような寺社の配置や景観の構成は、江戸初期とされる温泉寺所蔵の伝海北友竹画「温泉寺縁起」〔図14〕とほぼ同じであることに気づかされる。例えば、中州にある四所明神から山門の間に橋が架けられている点、右に温泉寺の多宝塔、左に社殿があり、薬師堂から温泉寺に向かってS字の道によって上がる点など、ほぼ景観構成は類似している。特に、城崎温泉との関わりでいうと、温泉寺の開山、道智上人が曼荼羅湯を湧出させたという伝承がある。曼荼羅に特別な意味が与えられることで、温泉寺の開祖と地主神で氏神でもある四所明神とが密接に関わってきたという関係図式、つまり思われる。例えば、中世山水画の実景図と参詣曼荼羅の関係については、中島純司氏によって、既に雪舟の「天橋立図」において実証されている(注8)。百拙もあるいはこのような社寺曼荼羅からの発想を得て、画の中心となる温泉寺の境内を描いたのかもしれない。このように、百拙は舶載された版本から驪山をイメージし、社寺曼荼羅などを参考にして城崎の景観を描いたと思われるのである。4.狩野派の名所・瀟湘八景図巻・明の紀遊図との関係城崎周辺では、18世紀頃に和歌に基づいて八景が撰ばれたが(注9)、さらに「城崎温泉勝景図巻」の特徴として大雅の「陸奥奇勝図巻」と同様に、ところどころに瀟湘八景を意識させるモチーフが見られることが挙げられる。例えば、「陸奥奇勝図巻」の「富山」に見られる「落雁」〔図15〕は、本図巻では「絹巻」あたりに描かれている〔図16〕。「遠南嶼」あたりに描かれた「帰帆」は本図巻では「後ヶ島」の遠景に見

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