鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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;ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公の美術パトロネージについての一考察―266―――ヴィッテンベルクの聖遺物カタログを中心として――研 究 者:東京学芸大学 教育学部 助教授  秋 山   聰はじめに―二人の選帝侯宗教改革の立役者ルターをめぐって、常に言及される君主が二人いる。ルターの公)と、ルターの最大の敵として「ハッレの邪神」とまで非難されたホーエンツォレルン家のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクである(注1)。彼らは、ルターを挟んであたかも対立関係にあったかのような印象をもたれがちだが、実際には友好な関係を保ち続けていた。フリードリヒもアルブレヒトも、当時の君主としては最高級の教育を受け、共に人文主義の影響下で学問や美術の振興に心血を注いでおり、相互に多くの話題を共有しえたようだ。フリードリヒは1502年にヴィッテンベルク大学を創設、アルブレヒトも1506年のフランクフルト・アン・デア・オーダー大学の設立に関与したり、マインツ大学の改革を断行している。フリードリヒはヤーコポ・デ・バルバリやクラーナハを宮廷画家として重用する一方で、デューラー、ブルクマイアー、ホッサールトなどに親しく作品を注文していたし、アルブレヒトもデューラー、クラーナハ、グリューネヴァルト、ベニングらに数多くの作品を依頼していた。またこの二人は共に当代有数の聖遺物コレクターでもあった。今日では先進的な美術パトロネージと、迷信に彩られたかに思われる聖遺物の収集とは、一見矛盾するかのように思われるかもしれない。しかし実のところ聖遺物崇敬は、美術作品発注の大きな動機を形成していた。このことはとりわけザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公によって注文された諸美術作品を通観すると顕著である。一世代若いアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは、美術家のパトロンとしても、聖遺物コレクターとしても、フリードリヒを手本とした節がある。筆者は目下この両名による美術パトロネージの諸相の解明を研究テーマの一つとしているところだが、ここではとりあえずヴィッテンベルクの聖遺物コレクションにまつわる美術作品を手がかりに、宗教改革直前におけるフリードリヒ賢明公のパトロンとしての美意識について若干の考察を試みたい。注文主としてのフリードリヒ仕事を求めてニュルンベルクを訪れていたイタリア人画家ヤーコポ・デ・バルバリが絵画を「第八自由学芸」であると論じ、先進的な美術論を展開した自薦状は、フリ「庇護者」として知られるヴェッティン家のザクセン選帝侯フリードリヒ三世(賢明

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