鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―267―ードリヒに宛てられたものであり、侯の人文主義的教養の高さを示唆している(注2)。侯の美術を見る目は当時のドイツにあっては卓越しており、学識の高さを評価して宮廷画家として採用したヤーコポの技量にはあまり満足できなかったようで、1505年にはヤーコポに代えてクラーナハを宮廷画家に任命している。デューラーとの関係も遅くとも1496年には確立され、以降終生良好な関係を保ち数々の作品を註文したばかりか、自らと同名の少年を修業のために工房に弟子入りさせてまでいる。他にもヴォルゲムート、ブルクマイアー、ホッサールト、ペーター・フィッシャー、コンラート・マイトなど今日でも名の残る多くの美術家に様々な作品を註文した(注3)。現存する作品中規模の大きなものの多くは、ヴィッテンベルクやトルガウの教会のための宗教画であった。デューラーのいわゆる『ドレスデン祭壇画』(Anz.20−27)や『ヤーバッハ祭壇画』(Anz.72−75)、『三王礼拝』(Anz.82)、『一万人の殉教』(Anz.105)など、クラーナハの『聖カタリーナの殉教』(F/R, Nr.12−14)、ブルクマイアーの『ペスト祭壇画』(注4)、ショイフェラインの『オーバーザンクトファイト祭壇画』(注5)などは、いずれも城内教会に設置されたものと考えられているが、同時にそれぞれの主題に関連する聖遺物がこの教会に存在していることに人々の注意を喚起する役割を担っていた可能性が高い。というのもこの教会には、他に例を見ないほどの膨大な数の聖遺物が収集されていたのである。そこで、まずヴィッテンベルク城内教会の聖遺物コレクションがどのようなものであったかを見ておこう。ヴィッテンベルクの聖遺物コレクションの形成ヴィッテンベルクの一大聖遺物コレクションは、その全てがフリードリヒ賢明公によって収集されたわけではない。彼が選帝侯位に就いた時点で、ヴィッテンベルク城には既に極めて重要な聖遺物が幾つか存在していた。コレクションの基となったのはアスカン家のルドルフ一世がフランス国王フィリップ六世から軍事的功績への褒賞として譲り受けたキリストの荊冠からの一本の棘であった。ルドルフは1346年にヴィッテンベルク城内に諸聖人教会を建立し、教皇からの贖宥の認可を得ていた。さらに1398年にはルドルフ3世が、教皇から諸聖人礼拝堂における宗教行事の参加者にアッシジのポルティウンクラ礼拝堂にのみ認められていた全贖宥が与えられる旨の贖宥状を得た。1423年にザクセン公位がヴェッティン家に移って後の1486年暫くなおざりにされていたヴィッテンベルクを居城に選んだフリードリヒ賢明公は、1490年から1509年にかけてアスカン家創建の城館を諸聖人教会共々建て直した。1502年の大学の設立と機を

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