鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―268―同じくして教会の献堂式を教皇特使のライモンド・ペラウディを招いて行ない、1507年には大学と教会を組織統合し、教区司祭が大学教師を兼ねることによる効率の良い運営を図っている。この時期からフリードリヒは、かなりのスピードで数多くの聖遺物を収集し、同時にアスカン家以来既得の贖宥の確認に加えて、聖遺物を目当に諸聖人教会を訪れる人々に与えられるべき贖宥の一層の拡充のために教皇庁との折衝を盛んに行ないはじめた(注6)。フリードリヒが意識的に一大聖遺物コレクションを形成する契機となったのは、恐らく1493年のエルサレムへの聖地巡礼だったと思われるが、この時期から1510年位までの聖遺物収集活動の詳細は不明である。帰路ロドス島において聖アンナの親指を手に入れ、翌年にはアンナの祝日を教皇の認可の許に導入したことと、1502年におばであるクエドリンブルク女子修道院長から聖コロナの親指を譲り受けたことぐらいしかわかっていない(注7)。しかしアンナの聖遺物の入手は、その後のフリードリヒが注文した祭壇画の中での聖アンナの比重の増大したことを説明する重要な事実といえる。また1506年までには聖遺物の公開行事(=聖遺物展観)が始められていた形跡があり、既に膨大な数の聖遺物が収集されていたと思われる(注8)。これに加えて帝国内の司教や諸侯に対して、それぞれが所有する聖遺物の一部を率先してフリードリヒに譲ることを推奨した教皇勅書を獲得することによって、さらにコレクションは増大の一途を辿った(注9)。フランス国王フランソワ一世やネーデルランド摂政マルガレーテ、枢機卿ラファエル・リアーリオといった大物が、教皇の勅書に刺激されてか、フリードリヒに聖遺物を譲っている。貴顕からの友好の証としての贈与のほかにも、時にクラーナハの絵画作品と交換されたり、遠隔地に置かれた代理人を通じて購入されることもあれば、極端な場合には盗み出されることもあったようだ。聖遺物コレクションのこのような一種異様な膨張を支えていたのは、領民の魂の救済のためというフリードリヒの統治者としての使命感であり、大儀名分であった。中世末期の信仰実践においては、「見ること」と「信じること」はほぼ同義とみなされており、聖遺物を実見することによって得られる贖宥の年数を増加し、「全ての敬虔なキリスト教徒の生活をより良くし、至福を増す」ためにこそ、莫大な数の聖遺物がヴィッテンベルクに集められたのであった。そのためフリードリヒは絶えず教皇庁と、聖遺物崇敬に伴なう贖宥の拡充に尽力していた。ヴィッテンベルクにおける聖遺物崇敬に関する贖宥において特筆すべきは、贖宥が聖遺物の数に応じて与えられたという点であった。1503年2月1日にペラウディによってもたらされた贖宥状によると、基本的には聖遺物一点を敬虔の念でもって見ることによって百日と1クアドラゲネ(=

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