―269―40日)の贖宥を得ることが出来た(注10)。このような贖宥付与は、明記された事例としては前例のないものであったが、この規定はフリードリヒの聖遺物収集活動の起爆剤ともなった。ちなみに1509年の段階でヴィッテンベルクの聖遺物コレクションはその数、既に5005点に上っていたが、1513年には5262点、1518年には17443点に増えており、その全てを展観において実見すれば、127799年と116日の贖宥を得ることが出来た計算になるという。さらに1520年初頭には18970点、同年中に19013点に到達したと伝えられている(注11)。しかし他方、聖遺物収集はまた、経済的に豊かな君主の美術愛好家としての側面をも大いに満足させることにもなった。聖遺物の多くは、特別な容器に納入された形でフリードリヒの許に到来することは稀であったので、大抵は金細工師に容器を発注しなければならなかった。聖遺物にとって容器は、安全な保管と同時に、聖遺物自体のいわれや功徳をわかりやすく見る者に理解させるために欠かせないものであったので、聖遺物コレクションとは同時に宗教図像を伴なう一大工芸品コレクションの形成を意味したのだった。聖遺物カタログフリードリヒ賢明公の聖遺物コレクションについては、ある程度の視覚的再現を可能にする稀有な造形史料が存在する。1509年頃のコレクションを列記した『ヴィッテンベルクの諸聖人教会の高く誉むべき聖遺物の呈示』という書物〔図1〕が、豊富な情報を与えてくれる。これはヴィジュアル版聖遺物カタログというべきもので、その体裁は今日の展覧会図録の原型をなすとも言える。聖遺物容器が一つ一つ図示され、その中に収められた聖遺物についての説明が付されている〔図2〕。ちょうど展覧会を訪れた人が作品の図版を見ながら、その題名や作者、制作年代を確認するのと同じように、ヴィッテンベルクを訪れた者が、聖遺物コレクションの概要を視覚的に容易に理解することが出来るようになっているのである(注12)。14世紀半ば以来、神聖ローマ帝国内諸都市では各地で聖遺物展観と呼ばれる聖遺物の公開行事が行なわれていた(注13)。ヴィッテンベルクでも遅くとも1506年には、同様の儀式がミゼリコルディアの日曜日の翌日(=月曜日)に催されていた。この展観行事のためのカタログとしてこの書物は制作、販売されたのである。この種の出版物はグーテンベルクによる活版印刷術の発明後まもなくから16世紀初頭にかけての短い間、ドイツ各地の聖遺物展観のために出版されており、近代に入って「聖遺物書」あるいは「聖遺物小書」と総称されるようになったが、ヴィッテンベルク本はその中
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