鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―270―でも様々な点で破格なものであった(注14)。なお本稿では以下、より実状に沿った今日的な表現として「聖遺物カタログ」という名称を用いておきたい。聖遺物カタログは、聖遺物展観を訪れる膨大な人々を潜在的な顧客と見込めることもあってか、一枚刷りの「聖遺物版画」と共に宗教改革直前の一時、ドイツ各地で流行を見た。ヴィッテンベルクの聖遺物カタログに先行するものとしては、バンベルク(1493年、1495年、1509年)ヴュルツブルク(1493年)、ニュルンベルク(1487年、1493年)、ウィーン(1502年)などの聖遺物カタログが出版されている(注15)。いずれも1493年刊行のヴュルツブルク本〔図3〕、ニュルンベルク本〔図4〕、バンベルク本〔図5〕の表紙には、いずれもその都市ゆかりの聖人像が描かれている。ヴュルツブルク本では中央に聖キリアン、左右に彼の従者トトナンとコロナトが、ニュルンベルク本では中央は聖母子だが、左にはゼーバルト、右にはロレンツ(ラウレンティウス)が配されており、バンベルク本ではハインリヒと妃クニグンデが大聖堂の模型を掲げている。この点、メルケルも指摘するようにヴィッテンベルクの聖遺物カタログの表紙〔図1〕は、大きく異なっている。ヴィッテンベルク本の表紙はクラーナハによる銅版画であり、銅版画を用いた書物としても嚆矢を為すが、加えてそこに守護聖人ではなく、パトロンとしてのフリードリヒ賢明公とその弟で共同統治者のヨーハン堅忍公が登場している点も前例がない。このカタログの刊行者であるジュンフォリアン・ラインハルトの印刷所はヴィッテンベルク城内に置かれた半ば公的な施設であり、カタログの紙葉の多くには選帝侯の紋章が印刻されている。こうしたことからこのカタログは、ザクセン選帝侯の公的出版物としての性格を色濃く有していたことがうかがわれる。またヴィッテンベルクの聖遺物カタログの斬新さは、表紙の銅版画にとどまるものではない。文字のフォントの使い分け、文字と図版との比重などにも、先行諸例との顕著な相違が認められる。バンベルク〔図6〕やヴュルツブルク〔図7〕、ニュルンベルク〔図8〕、ウィーン〔図9〕の聖遺物カタログでは、容器や聖遺物の説明文は均一な大きさの文字で記され、また図版も極めて簡素なものが専らである。容器のタイプが異なる場合は、問題なく識別できるものの、同じタイプの容器(例えば腕型タイプの容器)の場合は、ほとんど個別化の試みがなされておらず、個々の容器の識別が困難である。実際図版の役割は容器の凡その外形を示せば十分であると考えられていたようで、ヴュルツブルクの聖遺物カタログでは、全47点の木版挿絵の内、実に半分以上の27点がバンベルクの聖遺物カタログと同一の版木を利用したものである(注16)。現実の聖遺物容器を忠実に、迫真的に再現する、などという必要性が求められ

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