鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―272―ハが聖遺物ないしその容器の忠実な再現をはなから志していなかったかどうかは別としても、ここではクラーナハの様式的特徴がもだしがたく滲みでてきている観があり、聖遺物カタログという場でありながら、彼の画業の自己表現の舞台と化しているかのような印象を受ける。他の聖遺物カタログとは異なり、挿絵は聖遺物容器の記号としての機能や記録的・写真的役割を果たすことを放棄しており、むしろクラーナハの作品としての性格をより強く示しているのである。実際ニュルンベルク在住の人文主義者・医者で、『ニュルンベルク年代記』の著者シェーデルは、ヴィッテンベルクの聖遺物カタログも所有していたが、彼はヴィッテンベルクを訪れた形跡がなく、このカタログを恐らく交流のあった大学関係者から送って貰ったものと思われる(注19)。シェーデルは版画の収集家でもあり、当時のドイツにおいては他に先駆けて古代美術にも強い興味関心を示していた。このような人物にとってクラーナハの聖遺物カタログは、名のある画家が腕を凝らして優れた工芸作品を数多く描いた版画集として、本来のコンテクストから切り離して純粋に美的鑑賞の対象にしうるものに映ったのだろう。ヴィッテンベルクの聖遺物カタログには、表紙の銅版画にみられる、聖遺物と美術の優れたパトロンとしてのフリードリヒ賢明公の自意識の発露とともに、自我の奔出を抑えきれないクラーナハの近代的芸術家としての自意識の萌芽がうかがえるように思われる。あるいはこの点、賢明公と古くから親しい関係にあったデューラーからの影響もあったのかもしれない。というのも、ヴィッテンベルクの聖遺物カタログの刊行に僅かに先だつ1508年に、デューラーはフリードリヒから依頼された諸聖人教会のための板絵『一万人の殉教』(注20)〔図18〕を納入しており、ここでも、クラーナハの聖遺物カタログにおける場合に似て、フリードリヒの注文主としての斬新さが看取できるのである。ここでは、一万人ものキリスト教徒が処刑されるという陰惨無比な場面の中央に、恐らく制作中に亡くなった友人の人文主義者コンラート・ツェルティスを従えた画家自身が、自らがこの絵を描いた旨を記した紙片を挟んだ枝を携え、鑑賞者に流し目を送っている〔図19〕。このような自画像は通常「脇役としての自画像」に分類されがちだが、自画像が挿入された位置や画面全体の雰囲気と自画像との大きな齟齬などから見て、むしろ「主役としての自画像」と呼ぶべきであろう。あるいは自画像と宗教画(殉教画)とのパラゴーネとも言えるかもしれない。このような大胆な試みが可能だったとすれば、それは注文主であった賢明公が許容したから、というよりもむしろそれを望んだからであったからにちがいない。デューラーは第二次イタリア滞在後期、故郷の親友ピルクハイマーへの書簡の中で

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