―273―帰郷について触れ、「ここでは私は紳士だが、故郷へ帰れば居候」と述べている。芸術家にしかるべき処遇をするイタリアに対して、故国ドイツではまっとうな扱いを受けないことへの嘆きと思われるが、人文主義的教養を備え、アレクサンドロス大王と画家アペレスとの故事を熟知していたであろうフリードリヒ賢明公の美術家への寛容な態度は、デューラーの嘆きへの、一つの回答であったのかもしれない。デューラーがこの作品の銘文中において、アペレスが常に用いたとされる未完了過去形を用いていることや、またこの絵を含む三枚の絵によってデューラーはアペレスと競合することができると信じた、と伝えるショイルルの頌詩からもこの推測は支持されえよう(注21)。さて翻って、クラーナハによる聖遺物カタログも、結果として複合的な目的に供し得る極めてユニークな書物にして美術作品となった。このカタログは、展観の宣伝、記念、贖宥の確認、鑑賞の手引きのためであると同時に、君主にとっては領民の救済のために聖遺物を収集する君主としてのキリスト教的美徳を喧伝するために格好な君主表象でもあり、類稀な聖遺物コレクション(=工芸コレクション)を所有し、かつクラーナハのような優れた画家を抱えることを広く誇示するための極めて効果的な手段であった。1519年になってもフリードリヒが、フランス王の母にこのカタログの送付を約束していることからも、この書物の名声の広がりがうかがわれよう(注22)。大量生産と遠隔地への伝播を容易にする印刷本という媒体の特性が、こうした複合的な目的に極めて好適であったことを、あるいはこの鋭敏な君主は当初から見抜いていたのかもしれない。どちらかというと、ただ信心行為の補助手段と美術作品が見なされがちで、画家の有名性が考慮されてこなかった観のある中世末期・初期近世のドイツにおいて、賢明公が庇護した画家たちによるこれらの作品は、とても斬新なものであった。このように古代に範を取り、イタリアに倣ったかのような賢明公の美術パトロネージは、しかし、よりにもよって同じヴィッテンベルクにおいてルターによって火蓋を切られた宗教改革によって、その展開を阻まれることになるのは皮肉と言うより他ない。宗教改革の嵐の中で、聖遺物と美術作品の収集においてフリードリヒを模範と仰いでいたアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクにおいては、美術パトロネージはまた異なる様相を呈してゆくことになるのだが、それについては稿を改めて論じたい。
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