―280―を重ねることは充分にあり得るため、久下氏説を認めつつも、『源氏物語』以外のイメージを底流に119段の絵画を読み解く可能性を示したい。119段の絵画は、室町から桃山時代の遺品に遺るが、本研究では「伊勢物語絵本」(4帖、個人蔵。以下、中尾家本と呼ぶ)についての考察を中心とする。さらに、中尾家本と直接の関係はないが、嵯峨本の119段の図様のもととなる系統のチェスター本、続いて嵯峨本にも触れたい。中尾家本(注7)は、縦25.4糎、横25.0糎の枡形の袋綴4冊本で、室町後期頃の書写と考えられる。中尾家本の特徴に、殆ど全ての章段に絵がある点、一つの段に複数の絵が描かれる点などがある。その図様は伝統的なものを継承するものと、他の絵巻と異なり全章段を絵画化する故に独自のものがある。この中尾家本の119段〔図2〕は邸内に「きさき」と注記される女が座り、掛尾のついた立烏帽子を手にし、前に衣が置かれる。「形見こそ」の和歌が室町時代以降に纏うイメージを検証し、この形見は何に由来するのかを明らかにしてゆきたい。2、能〈松風〉「形見こそ」の和歌を引用した文学作品は数多いが(注8)、注目すべきは、能〈松風〉である。〈松風〉は田楽能「汐汲」を観阿弥(1333〜84)が改作、さらに世阿弥(1363〜1443)が改作した作品とされ、『申楽談儀』の〈松風〉の記事から、世阿弥50歳の応永19年(1412)以前の作とされ(注9)、世阿弥も「松風村雨、こと多き能なれどもこれはよし」と言及する。中尾家本の成立の約150年程前と考えられる。以下に〈松風〉の梗概を記す。諸国一見の僧が、須磨で汐汲み車を引く海士の姉妹に昔須磨に流された在原行平(業平の兄)の古跡の松について語ると、姉妹は我等こそは行平の寵愛を受けた松風村雨姉妹と名乗る。行平の形見の「御立烏帽子狩衣」を身に着け半狂乱となった松風は、行平への恋慕の舞を舞い、行平に見たてた松に抱きつく。松風村雨は僧に回向を頼み消え、あとには須磨の浦にただ松風が吹くばかりであった。この〈松風〉は大変好まれた演目だったことが演能記録から知られる(注10)。永正14年(1517)年の奥書をもつ観世本広書名本(注11)から形見のくだりを引用する。(傍線筆者)行平の残した形見の品は、「おん立烏帽子狩衣」である。[クセ]地あはれいにしへを、思ひ出づれば懐かしや、行平の中納言、三年はここに、須磨の浦、都へ上り給ひしが、この程の形見とて、おん立烏帽子狩衣を、残し置き給へども、これを見るたびに、いや増しの思ひ草、葉末に結ぶ露の間も、忘れればこそあぢきなや、形見こそ今は徒なれこれなくは忘るる隙もありなんと、読みしも理や、なほ思ひこそは深けれ。
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