鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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■岸田劉生「二つの運命」、前掲注■、531頁所収。■島田康寛氏は『小出楢重画集』(東邦出版、2002年11月)の作品解説の中で、1928年制作の《卓上静物(西瓜のある静物)》と《卓上静物》(京都国立近代美術館)に対して、前者に優雅でしっとりとした詩情を、後者に一種グロテスクな妖気が漂うごった煮的で大阪的な美感を指摘した上で、「しかし、いずれの場合も画面は確かな造形秩序によって構成され、不思議な透明感が画面を支配している。そこに小出の静物画の完成度の高さが指摘できるだろう。」(78頁)と述べている。■渡欧前に小出は《Nの家族》(1919年)や《少女お梅の像》(1920年)を描いている。これらからは、絵具の使い方は本作と全く違っても、画面内のモチーフへの同質で均質な、つまり描こうとする主たるものだけに腐心して制作をするのではない小出の姿勢がその当時からあったことがわかる。なお、《少女お梅の像》に描かれたたんすと1922年の《静物》の台は、同じたんすであろう。小出は「下手もの漫談」(『めでたき風景』創元社、1930年5月、222頁)で以下のように言う。「蜻蛉の羽根と胴体を形づくる処のセルロイド風の物質は、セルロイドよりも味がデリケートに色彩と光沢は七宝細工の如く美しい。あの紅色の羽根が青空に透ける時、子供の私の心はうれしさに飛び上つた。そしてあの胴体の草色と青色のエナメル風の色沢は油絵の色沢であり、ガラス絵であり、ミニアチユールの価値でもあつた。」田辺信太郎は「そして画布全体が、透明な厚硝子か、磁器の感触をもつてゐた。」(「小出君本旨とは離れるが、河辺は1980年11月に『河辺昌久画集』を出版している。その中に数点の模写があり、岸田の《道路と土手と塀》も認められる。模写の制作年は記載されていないものの、自ら画歴を記した部分に、絵を描き始めた頃は草土社の画風の全盛時代だったとあり、模写を「その作者の画境の万分の一にでも近よりたいと云う願望から出発する」(60頁)と位置づける河辺は、岸田に憧れや尊敬の念を抱いていたようである。なお河辺の同画集の中からは、藤田嗣治に教えを受け敬意を抱いていたこともわかる。河辺は藤田の独特な画布について高い関心を示しており、《道路と土手と塀》から学ぶべきもの―おそらくは質感表現―を受け取っていたことは推測され得る。しばしば引用される村山の言葉は以下の通りである。「私は真ッ二つに裂かれてしまった。/一方では、いままでの絵画の約束をすっかりブチ破ったアブストラクトに惹かれ、一方ではデューラー、ホルバイン、クラナッハ、レオナルドに惹かれた。/しかし、私は別に矛盾も感じずに、この二つの方向の両方へ向って突っ走り始めた。」(村山知義『演劇的自叙伝第二部』東邦出版社、1971年8月、49頁)五十殿利治氏は『大正期新興美術運動の研究』の中で、第十一章を「構成物の時代――未来派『東京国立近代美術館所蔵品目録 絵画 1991』1991年3月、161頁。前掲注、63頁。村山は、作画の材料として使う絵具とキャンバス以外のものが持つ触覚的効果を自覚していたと語る(「大正期の新興美術運動をめぐって■マヴォの思い出(その一)」『現代の眼』189号、東京国立近代美術館、1970年8月、7頁)。―294―田劉生試論―静物・風景・人物―〜所蔵油彩作品を中心に〜」『研究紀要』第8号、下関市立美術館、2001年3月。『自画像』の三本筋」『みづゑ』314号、1931年4月、199頁)という。美術協会から三科展まで」として、構成物にページを割いている(625〜705頁)。

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